『ガレキ』──日本を席巻した200日の瓦礫問題が投げかけた震災後の「当事者性」【後編】
#東日本大震災
■データ開示と議論の客観性
丸山 被災した自治体の方でも、できる限り自分たちで瓦礫を処理しようとしていたのと、想定よりも瓦礫の量が少なかった地域もあったので、当初予定していた県外受け入れが不要になったケースも出てきました。そうなると反対運動は、結果的に右往左往しただけで終わったものもある。その時に、反対運動が正しかったと考えている人もいれば、反対の声を上げたことをなかったことにしているような人も見受けられました。一過性の祭というか、声を上げることに意義を見出したような感じの人もいる。そうした人たちの中には、大飯原発再稼働反対など、別の市民運動に行動を移していった人もいます。
萱野 やはり広域処理反対派だった人たちは、再稼働反対、反原発といった立場の人が多いのでしょうか。
丸山 そういう印象を受けました。とはいっても、瓦礫処理のプロセス、行政、民間の携わる範囲を把握して反対活動をしている人は少ないです。ピックアップしてくる情報に偏りが生じてしまうことも多い。
萱野 政府に対して情報を隠しているんじゃないかという批判の声があがる一方で、都合のいい情報を共有する空間がメディアの中に生まれてしまったりする。そうなると客観性も損なわれてしまいますね。
丸山 各首長に話を聞くと、政府についてはともかく各自治体レベルではもう持っているデータは開示しきっているといいます。そうしたデータは「県政だより」のような媒体で公表している。県知事の名前で出したデータで県民に不利益が出るようなことがあれば、当然県が補償をすることになります。各首長はその覚悟でデータ開示をしている。そうである以上、データ開示や信憑性に関しては落ち着いて受け止めてもいいのではないかと思います。
■ケガレとしての「ガレキ」
丸山 本書の中では震災瓦礫を“ガレキ”とカタカナで表記しています。一連の広域処理問題の中で、瓦礫という言葉には「ケガレ」の意識が含まれるようになってきたと捉えているためです。それはイメージの中で作られた「ガレキ」、イメージの中で作られた「放射能」です。実態と離れた「ガレキ」はケガレの概念が生み出した産物となってしまい、それゆえに感情的な拒絶に繋がってしまっている。
萱野 人間は日々暮らしている中で、それほどクリーンな存在でいられるわけではありません。生活習慣にせよ摂取するものにせよ、日々健康を侵すようなリスクを気にしないで生きていたりする。いわばケガレた存在であるとも言えるわけです。体に良くないものも食べるし、酔っ払って街を歩きもする。それらにだって充分リスクがある。けれども放射性物質の一点にだけ過剰に注目し、さらにその過剰な反応が道徳的に正当化されてしまっているところがありますね。
丸山 リスクの点で言えば、福島第一原発で働くような場合は別にして、多くの人にとっては放射線の問題で懸念されるのは発がんのおそれですよね。がんであれば初期段階ならば対応できるものも少なくない。そう考えると、転居を繰り返すよりも、定住していた方が、医療ケアなど自治体からの補償も求めやすいのではないかと思います。
萱野 低線量被曝についてはわかっていないことも多いですが、低線量であるぶん、事後対策に費用や時間をかけることが建設的でしょう。今後の長期的な健康診断などを整備する方が、リスクのことを考えるならばよっぽどいいはずです。
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