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萱野稔人の"超"現代哲学講座

活字の過剰供給と電子書籍化によってついに書物から”アウラ”が消滅!? 書籍の価値が減りゆく理由

【プレミアサイゾーより】

──国家とは、権力とは、そして暴力とはなんなのか……気鋭の哲学者・萱野稔人が、知的実践の手法を用いて、世の中の出来事を解説する──。

第25回テーマ「出版デフレで欠如した書籍の物神性」

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[今月の副読本]
『複製技術時代の芸術』

ヴァルター・ベンヤミン/晶文社(99年)/1995円
複製技術は芸術になにをもたらしたのか? そこで得たものと失われたものとは? 複製技術というテクノロジーの発展から、芸術のあり方を再考した、ドイツを代表する思想家の論考集。他、「写真小史」など4編を収録。


 近年いろいろなところで「本が売れなくなった」という声を聞くようになりました。少し前には新書ブームがあり、一時的に出版市場が盛り上がったようにも見えましたが、それもいまや沈静化しています。私も出版の世界で活動している人間ですので、本が売れなくなったという事態は決して他人事ではありません。

 その事態は数字によってはっきりと示されています。日本の出版市場は1996年に過去最高の2兆6563億円を記録して以降、縮小の一途をたどっています。2009年には21年ぶりに2兆円台を割り込みました。この2兆円台の割り込みはニュースでも報じられたので、知っている人もいるかもしれません。2010年はさらに落ち込んで1兆8748億円になりました。1996年と比べると3割近くも減少しています。これでは多くの出版関係者が「本が売れない」とボヤくのも仕方のないことですね。

 興味深いのは、このように出版市場が縮小の一途をたどっている一方で、新しく刊行される書籍の点数は増えているということです。1996年には6万3054点だった新刊書籍刊行点数は、2010年には7万4714点になりました(2009年はもっと多くて7万8555点でした)。つまり、かつてより多くの本が出版されるようになっているにもかかわらず、それぞれの本の販売部数はそれに反比例してどんどん減っているのです。

 これは出版社にとっては、一点ごとの書籍の販売部数が減っているので、できるだけたくさんの書籍を刊行することで全体として利益を維持しなくてはならない、という状況を意味します。これはキツイですね。仕事はどんどん忙しくなる反面、だした本はたいして売れることなく、すぐに書店から姿を消していってしまうわけですから。私の周りにも、つくる本のノルマが増えて悲鳴をあげている編集者がたくさんいます。そうなると、いい本をじっくり時間をかけてつくるなんてことはもうできません。

 では、なぜ本が売れなくなってしまったのでしょうか。しばしばその理由として「若者の活字離れ」が指摘されます。しかしその指摘はまったく正しくありません。というのも、若者は活字から離れているどころか、逆にかつてなく活字に触れているからです。メールやSNS、インターネットのサイトやブログなど、彼らは携帯電話やパソコンをつうじてつねに活字を読み書きしています。年長世代だって、仕事や私用で、多い人では一日に何十通ものメールをやり取りしますよね。メールの登場によって、私たちは人類史上最高といっていいほど手紙(メール)のやり取りをするようになりました。それだけ現代の私たちは活字を読み書きしているということです。本が売れないというとすぐに「活字離れ」が叫ばれますが、実際にはまったく逆の事態が進行しているのです。

 むしろ、ネットやメールなどをつうじて活字があふれすぎてしまったために、わざわざ書物によって活字に触れたり、知識を得たりする必要性が低下してしまったぐらいです。ニュースについても同じですね。いまやネットでだいたいのニュースを読むことができるようになったために、わざわざ新聞を買ってニュースを手に入れる必要性が低下してしまいました。実はここに、書籍や新聞の販売部数が低下した大きな要因があります。書物が活字に触れるための特権的な媒体ではなくなってしまったんですね。「活字離れ」ではなく「活字の過剰」こそが、本が売れないことの背景にあるのです。

 この「過剰」は書籍そのものの過剰にもつながっています。先ほど、出版市場は縮小しているのに書籍の刊行点数は増加していると述べました。これは読者の側からすれば、次から次へと新しい本がだされるので追いつけない、という状況を意味します。書籍を一つの消費財としてみたときに特徴的なのは、消費する(つまり読む)のに時間がかかる、ということです。次から次へと本がだされても、一日は24時間しかないし、現代人はますます忙しくなっていますので、読みきれません。ブランド物のバッグとかアクセサリーなら、次から次へと商品がだされても、お金さえあれば使い捨てのように消費して、それに応えることができるでしょう。しかし、消費に時間がかかる書籍のような消費財は、たくさん供給されたからといって、その分市場が開拓されて消費が拡大するわけではないのです。

 供給が過剰になればどうなるでしょうか。当然、値が崩れます。つまりデフレですね。少し前の新書ブームとは、まさに出版市場における価格破壊でした。それまでは1500円したような書物が新書になって700円程度で買えるようになったわけですから。事実、全体でみても書籍の平均単価は年々低下しています。簡単にいえば利益がでにくくなっているわけですね。新書ブームが起こったとき出版界はわきたちましたが、実際にはそれは出版市場のさらなる低迷へのレクイエムだったのです。

 ちなみに、供給過剰が価格低下を引き起こすというのは、日本経済を悩ませているいまのデフレ現象とまったく同じ構造です。もちろんデフレの背景は複雑です。が、出版市場における価格低下はデフレのメカニズムを理解するための一つのヒントを与えてくれています。供給過剰がデフレの大きな要因の一つである以上、規制緩和などによって生産性を上昇させてもデフレがいっこうに解消しないのは当然といえば当然です。実際、出版業界でも、あまりに簡単に書籍が編集され出版されるようになったという生産性の上昇が、価格低下を引き起こしました。

 問題は、ここまで活字が過剰になり、書籍も過剰になると、書物そのものの性格が変わってしまうということです。ネットなどをつうじた活字の過剰によって、書物はもはや知の特権的な媒体ではなくなりました。また、書籍の過剰によって、書物は「ありがたいもの」ではまったくなくなり、逆に「場所をとるだけのもの」「処理に困るもの」になりつつあります。かつては、百科事典や文学全集を居間や書斎に並べることが教養をあらわすインテリアとして(たとえ実用していなくても)重宝された時代がありました。また、気に入った本の装丁をわざわざ自分で革製にかえる人や、「本だけは捨てられない」と巨大な書庫を自宅に設ける人もたくさんいました。書物は知の象徴として物神的な価値をもっていたのです。しかしいまではその物神性ははがれ落ち、邪魔なものとなり、書物もまた他の消費財と同じように大量生産・大量廃棄されるものになったのです。

 かつてヴァルター・ベンヤミンは『複製技術時代の芸術』のなかで、映画や写真など、複製できる芸術の登場によって芸術作品から「アウラ(オーラ)」が消えていくだろうと論じました。それを援用するなら、現代は書物から最後の「アウラ」がなくなりつつある時代だといえるかもしれません。書物はもともと複製技術(活版印刷技術)によって生まれたので、絵画などの他の芸術作品と比べると、「いまここにしかない」という「アウラ」は弱かったかもしれません。とはいえ、それでも書物も作品である以上、そこには知の象徴としての「アウラ」がありました。それが書物の物神性へと結実していたのです。しかし、ここまで活字が過剰となり、書籍が過剰に出版されるようになると、書物はただのデータを運ぶ器の一つでしかなくなります。複製技術の究極は、すべてがデジタルデータになることです。デジタルデータであればいくら複製しても劣化しませんから。その意味で、電子書籍化の流れは、賛否両論あるにせよ、「アウラ」を消滅した書物にとって歴史的な運命なのかもしれません。

かやの・としひと
1970年、愛知県生まれ。03年、パリ第十大学大学院哲学科博士課程修了。哲学博士。津田塾大学准教授。主な著書に『国家とはなにか』(以文社)、『カネと暴力の系譜学』(河出書房新社)、『権力の読みかた』(青土社)など。近著に『最新日本言論知図』(東京書籍)、『新・現代思想講義 ナショナリズムは悪なのか』(NHK出版新書)など。

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最終更新:2012/09/30 15:53
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