ベテラン芸能記者が明かす“演歌界のドン”故・長良じゅん会長の素顔
#演歌
芸能取材歴30年以上、タブー知らずのベテランジャーナリストが、縦横無尽に話題の芸能トピックの「裏側」を語り尽くす!
氷川きよしの芸能界の育ての親で、“演歌界のドン”と呼ばれ、「長良プロダクション」などを抱える長良グループ会長の長良じゅんさんが5月2日、ハワイのゴルフ場で不慮の事故死を遂げた。享年74歳。長良会長のプロフィールや人脈の広さについては、すでに報道されているのでここでは省くが、長良会長がなぜ“演歌界のドン”と呼ばれるようになったのか? 筆者が知る、素顔の一面を紹介したい。
若い頃は、木倉事務所のスタッフとして、雪村いずみや水原弘といったスターのマネジメントにかかわった長良会長は、20代で独立し、故・黒木憲や君夕子といった演歌歌手を育てた。経営的には決して順風満帆ではなく、廣済堂グループのバックアップを受けたこともあったが、新たな演歌歌手を育てたいという気持ちは人一倍強く、1981年に山川豊をデビューさせた。
「山川豊」という名前は、一世を風靡した橋幸夫のマネジャーの名前だった。山川がデビューする直前に、長良会長の先輩に当たる、敬愛していたそのマネジャーが階段から転落死。哀悼の思いを込めて、自分が手がける新人歌手に先輩の名を付けたのだ。その後、90年代に入り、田川寿美、水森かおりらをデビューさせたが、悲しいかな演歌は衰退の一途を辿っていた。低迷する演歌界に新風を吹き込んだのが、氷川きよしだった。氷川の芸名は、長良会長に頼まれてビートたけしが付けたものだが、両者と親しい筆者もその命名の場に同席させてもらったのを覚えている。
実は筆者と長良会長は30年来の親しい関係だ。長良会長は筆者を「圭、お前は俺の弟分だ」と言って可愛がってくれた。それだけに、長良会長の思い出については語り尽くせないほどだ。
以前は、夜の銀座に毎晩のように繰り出していた。クラブでは、ついたホステスにあらかじめ用意していたチップを配る。店で偶然、テレビ局や芸能プロ関係者、それにタレントが別のテーブルで飲んでることを知るや、さり気なくボトルをプレゼントしたり、支払いを済ませる。気配りの人だった。それだけに人望が厚かった。それが結果的には仕事につながっていったのだろう。ちなみに、15年くらい前から「銀座は若いねえちゃんがいないから、面白くない」とホームグランドを六本木に替えたが、遊びのスタンスはまったく変わらなかった。余談だが、演歌はこよなく愛したが、カラオケは苦手のようで、長良会長が歌っているところを一度も見たことがない。
一見強面に見えるが、マスコミに対して威圧的は態度を見せることはなかった。週刊誌などに、所属のタレントに関する不都合な記事が掲載されると「担当者に会って、食事したい」と申し込む。指名された担当者はビビりながら長良会長に会うが、話が始まると、威圧するどころか、いつの間にか長良会長のペースに巻き込まれる。人を惹きつける不思議な魅力を持っているのだ。硬派なジャーナリストも、彼の前では陥落した。
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