そして『孤独のグルメ』だけが残った……月刊「PANjA」とB級グルメの栄枯盛衰
#昼間たかしの「100人にしかわからない本千冊」
ついに実写ドラマにまでなった人気マンガ『孤独のグルメ』。最初の連載が1994年だから、大変息の長い作品である。でも、もう誰も覚えていないのではないか。『孤独のグルメ』が連載されていた雑誌・月刊「PANjA」(扶桑社)のことなんて……。
「PANjA」は、週刊「SPA!」(同)の黄金時代を築いた渡辺直樹を編集長に、94年に創刊された。「40歳になったら東洋文庫をやりたい」と入社した平凡社で、月刊「太陽」(当時の編集長は、嵐山光三郎こと祐乗坊英昭)を経て、嵐山と共に東急池上線の長原駅近くの八百屋の2階に間借りして開業した青人社で「月刊ドリブ」を創刊した渡辺が、「SPA!」の2代目編集長として招かれたのは89年のことだ。
「SPA!」は88年6月に「サンケイ新聞」が「産経新聞」へ題字変更するのに伴い、「週刊サンケイ」をリニューアルする形で創刊された。初代編集長にはフジテレビで『おはよう!ナイスデイ』などを担当していたプロデューサーの宇留田俊夫が招かれたが、新聞社の発行する週刊誌の枠からの脱却は難しく、売り上げは伸び悩んでいた(当時の「噂の眞相」でも「早くも廃刊か?」と書かれていたので、相当ヤバかったようだ)。
15年余り前、まだ「知るは楽しみなり」だったと回想。
月刊誌の余裕なのか、ページデザインが「贅沢」な感じ。
編集長に就任した渡辺は、デザイン・企画など誌面改革に着手する。そして、雑誌が大化けしたのは、幾人ものメディアスターの登場からだった。流行語「オヤジギャル」を生み出した、中尊寺ゆつこの「スイートスポット」、宅八郎の「イカす!おたく天国」、小林よしのりの「ゴーマニズム宣言」(小林を推薦したのは、後にオウム真理教の取り扱いをめぐって激しく対立する鶴師一彦である)と、毎号買いたくなる連載が並んだ。その勢いに乗って、94年6月に創刊された「PANjA」は、いわば「SPA!」を濃厚に煮詰めたとでもいうべき「味付けの濃い」月刊誌であった。
創刊号の巻頭特集は「美人にバカはいない」。「セカンド・ビューティーは美人じゃない」「やっぱり顔が大事」「美人は心が安定している」といった見出しが続く「濃い」特集だ。総ページ数192ページのうち、巻頭特集は40ページにわたって続けられる。こういった世間を斜め読みするとか、ある一定の条件で世間の人をカテゴライズするといったテーマの記事は「SPA!」の巻中カラーページの得意技だったが、ページ数はせいぜい6ページ程度。「『SPA!』も読んでいるから、こちらも買ってみよう」という読者でも途中で満腹になってしまうテイストであった。
やはり好き嫌いが分かれる味付けだ
同じく連載の味付けも濃かった。大泉実成の連載「ニッポンのお葬式」は、大山倍達(94年4月死去)からスタート。小林よしのりの対談マンガ『聖人列伝』の第1回目は小沢一郎である(この連載ではその後、美輪明宏なんかも登場する)。
これだけでも一目瞭然だと思うが、よくも悪くも、マニア受けという言葉がよく似合うページ構成である。その後も、ボリュームのある巻頭特集と第2特集を中心に据えたスタイルは休刊まで継続するが、テーマは一貫して濃かった。「恋の本音は男性上位でお願い!」「戦争への押さえがたい誘惑」「頭の良い悪い新基準」「ニッポンB級グルメ最終論争」おそらく最近だったら、このネタひとつで新書にしてしまうのではないかというタイトルが並ぶ。振り返れば、90年代半ばの「これから、世の中はどうなるんだろう」という、予想もつかない怪しさを詰め込んでいたように読める。
にくい表紙だと思う。
この怪しさに惹かれるのはごく一部だったようで、売り上げは芳しくなくリニューアルは繰り返された。途中から「大人のクロスセックス・マガジン」というコンセプトを立ててみたり、末期には「保存版」と銘打ってオペラからマンガまで、1回ワンテーマでさらに濃いウンチクを語るページまで設けられた。当時、筆者はリアルタイムで購入していたのだが、もっとも驚いたのは95年の10月号だ。この数号前から「篠山紀信の女子小学生表紙シリーズ」と銘打った表紙のリニューアルが行われていたが、この号は海辺で裸にシーツを巻いただけの女子小学生が表紙で、とてつもなく買いにくかった記憶がある(なお、グラビアでは栗山千明と吉野紗香も登場しているので、その手の趣味の人には貴重らしい)。
短期間の間に、さまざまなリニューアルを試みた「PANjA」だが、なんら予告もなく96年6月号で突如休刊が告知される。休刊は編集部にも予告なく経営側の決定でなされたことから、「SPA!」での宅八郎VS小林よしのり騒動による『ゴーマニズム宣言』撤退以来の部数低迷の影響や、社屋移転(この前年に扶桑社は曙橋から現在の浜松町へ移転)によって外部の人間が寄りつかなくなった影響などさまざまな憶測が流れた。
休刊に伴い、渡辺は自ら希望して書籍編集部に異動した後に、アスキーへ移り「週刊アスキー」を創刊することになる……。
■そして、『孤独のグルメ』だけが残った
短命だった「PANjA」で久住昌之・谷口ジローによる『孤独のグルメ』の連載が始まったのは、94年10月号。「東京都台東区山谷のぶた肉いためライス」に始まった連載は「東京都千代田区秋葉原のカツサンド」まで続いて一旦中断。復活した「東京都渋谷区渋谷百軒店の大盛り焼きそばと餃子」が掲載されたのは、休刊号であった。連載されていた当時、雑誌の売れ行きが低迷していたこともあるのか、この連載はまったく注目されていなかった。休刊の翌年、97年10月に単行本が発売されるものの、まったく話題にはならなかった。
おそらくは、このまま「知る人ぞ知る」マニアな作品として消えていく運命にあっただろう。ところが、21世紀に入るころからだろうか「B級グルメ」が注目されるようになると共に、この作品も脚光を浴びるようになる。明確な確証は得られないが、最初はインターネットで幾人かの読者が、モデルになった店を実際に探し当てて訪問する一種の「聖地巡礼」的な形態で注目されていたように思われる。2000年2月には文庫版が発売されているが、その時期から徐々にメジャーな作品となっていたように思われる(大宅壮一文庫で確認した限り、一般誌への初出は「週刊文春」1998年1月15日号でマンガ家の吉田戦車が「いま誰かに贈りたい本」で取り上げている記事)。
「B級グルメ」の歴史は意外に古い。「B級グルメ」の言葉の産みの親である、フリーライターの田沢竜次によれば、最初に記したのは85年だという。主婦と生活社が発行していた情報誌「月刊アングル」で連載された「田沢竜次の東京グルメ通信」をまとめた『東京グルメ通信』(主婦と生活社、85年12月)において、帯に「B級グルメの逆襲」と記したと田沢は証言する。加えて、同書の巻頭で田沢は「B級グルメ宣言」と称して「腹ぺこ精神」「限られた予算で最大の効果をあげる食の知恵」「恐怖感」「権威にびびらない」「細部へのこだわり」「歩くこと」「脱ブランド、反ファッション」の七つのテーゼを掲げている。
その後「B級グルメ」という言葉は、次第に広まっていくが、田沢の掲げたテーゼは容易には浸透していかなかった。どちらかというと、丼物やラーメン、蕎麦などのグルメネタを総じて扱うときに都合のよい言葉として扱われていた感もある。「B級グルメ」のテーゼが一般に広まって行くには、長い年月が必要だった。
久住昌之は「ユリイカ」(青土社)2011年9月号のインタビューで、「『孤独のグルメ』の連載当初、テレビでも雑誌でもグルメブームで食べ歩きとかがすでに流行っていた。ラーメンやカレーとか、手打ち蕎麦とか。編集者は、それにちょっとウンザリしていて、違う方向性をみせられないかということで、ぼくに依頼してきたと思うんですね」と語っている。
渡辺は「”価値相対主義”では限界があると思ったから、確固とした新しい価値観を想像しようと月刊で『PANjA』を創刊したんです」(「噂の眞相」97年3月号)と語っている。『孤独のグルメ』をロングセラーにしたのは、食という行為において押しつけではない「B級グルメ」のテーゼが、知らず知らずのうちに浸透したゆえだと解釈できる。もっとも「B-1グランプリ」の大規模化に見られるように、「権威にびびらない」とか「脱ブランド、反ファッション」がまた忘れ去られているのも、歴史の必然だろうけど。
この文章を記すにあたって「B級グルメ」の初出を確認するために田沢に電話した時に思い出したのだが、以前、別の取材で田沢と四ツ谷駅近くの飲み屋に行ったとき「特定の店の常連にならないように気をつけている」と語っていた。彼こそ、『孤独のグルメ』以前からの「孤独のグルメ」の実践者ではあるまいか。
(文=昼間たかし 文中敬称略)
※なお『孤独のグルメ』と同じく「PANjA」に連載されていた岡野玲子の『妖魅変成夜話』も、その後継続しているので正確には「マンガだけが残った」である。念のため。
こちらは新装版。
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