新説? 珍説? 日本は「江戸化」が終わり「中国化」する――その心とは?
#本 #中国
昨今、巷には中国脅威論を煽る本が並んでいる。『中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史』(文藝春秋)というタイトルだけを見れば、この本もその類の本かと思うかもしれないが、そうではない。多くの人が「近代化は、ヨーロッパから始まったもの」と考えるが、日本近現代史を研究する著者の與那覇潤(よなは・じゅん)さんは、同書などを通じて、「初期近代(近世)まで視野を広げれば、近代化は、宋朝の中国で始まった」と語っている。そして、宋で導入された画期的な社会の仕組みを中国化と名付け、「長い江戸時代」という「独自の近世」が続いていた日本もついに「中国化」し、中国のような社会になる可能性を論じるのである。今回、愛知県立大学で教鞭をとる與那覇さんに、本書のキーワードとなる「中国化」そして「再江戸化」について聞いた。
――本のタイトルにもある「中国化」という言葉は、そもそもどのように生まれたのですか?
與那覇 現在の職場に着任して、初めて1年間を通して日本近現代史を教えることになりました。せっかくですから、授業では古代史から現代研究まで、多様な学生さんのためにもできるだけ長いスパンを扱って、歴史の見方を変えることができる話をしたいと思ったのです。そこで「近代化」の定義について、再考したいと考えました。一般的に日本における近代化といえば、明治以降の西洋化を指します。しかしそうではなく、むしろ近代化とは、中国化であるという見方をしたら面白いのではないかと。実際、現在の歴史学では「近世」(日本では江戸時代、中国では宋~清朝)をむしろ「初期近代」と解釈しているんですね。その立場に立つことで、明治時代以前・以降に、日本で起こったことを比較しながら考えることができると思いました。
――「中国化」とは、具体的にはどんなものなのでしょうか?
與那覇 簡単にいうと、社会から確固たる地盤を持った貴族層や、その領地ごとに形成された村落共同体などの中間集団がなくなり、バラバラの個人だけになっていくことだと思ってもらえれば、わかりやすいと思います。
――それだけ聞くと、中国化と西洋化は近い内容のように思うのですが、両者の違いとは?
與那覇 近代化する前の時代というのは、集団主義で個人が抑えつけられたり、権力者が庶民を支配していたりというイメージがありますね。いわゆる西洋化(これまでいわれてきた「近代化」)とは、貴族の荘園や身分制度が解体されて、経済が自由化すると同時に、政治的にも民主化していく。さらに宗教社会が世俗化して、思想的には多元性が容認される状況になることです。しかし、中国で起こった近代化=中国化では、個人はバラバラで自由になる一方で、政治的な権力はものすごく集権化されたんですね。つまり、個人の経済活動や職業選択の面では自由になりますが、政治的には超強力な中央集権の権力が発動され、その下で思想も画一化される。具体的にいうと、宋朝(960~1279年)の中国では世界で最初に皇帝以外の身分制や世襲制が撤廃され、移動の自由、営業の自由、職業選択の自由が広く行き渡りました。しかし、貴族がいなくなったことで皇帝独裁になり、しかも皇帝に仕えて政治を担うには、科挙と呼ばれる、儒教イデオロギーを徹底的に身につける試験をかいくぐらないといけなくなった。
――日本は、地理的にも中国と近く、あらゆる面で大きな影響を受けてきました。また、日本もいわゆる儒教文化圏という言い方をされることもあります。しかし、日本は宋の仕組み(中国化)を真似しそこねたと指摘されていますね。
與那覇 唐の時代までは中国を意識的に真似してきたのですが、なぜか宋朝以降の中国の仕組みを受け入れなかった。そして、江戸時代という、中国とはまた別の形の「独自の近代(近世)」を迎えることになります。思想史の研究者が明らかにしてきたことは、そもそも儒教社会をきちんとつくったといえるのは、中国と朝鮮王朝くらいで、日本の江戸時代は儒教社会などではないということです。現に、科挙制度ではなく身分制で社会が運営されていたように、個別の儒学者が何人かいても、政治の仕組み自体が儒教的に正当化されたり、設計されたりしたわけではなかった。むしろ、儒教の影響が出始めるのは幕末で、それは明治維新を通じて完成されていきます。要するに、日本は儒教化の後進国だったのです。
――本書の中に出てくるもうひとつのキーワードが「再江戸化」という言葉ですが、まず「江戸化」とはどのような意味でしょうか?
與那覇 一言でいうと、一般庶民が「家産」で食べていくことです。江戸時代というのは、家ごとに仕事が与えられ、自分の家の生業をやれば食べていける社会だった。それまでの時代というのは、稲作が十分に普及していなかったため、農業だけで食べていける家はそんなにありませんでした。江戸時代になると、稲作が普及し、自分の家の田んぼを守れば、なんとか食べていける状況になりました。
――しかし、明治維新以降、産業革命で工業が発達しますね。
與那覇 ところがそうなっても、もともと農家ベースであった家職制度を半ば強引に工業社会に適用させます。これを本書では「再江戸化」と呼んでいます。家職制度を強引に工業社会に適用させた例としては、2つあります。ひとつは主に男性対象で、終身雇用に代表される日本的経営で、一度就職をすれば、よほど悪いことをしない限り、定年まで食べていけるという仕組みですね。これは江戸時代では田んぼだったものが、会社に置き換わったのです。もうひとつが女性を狙い撃ちした、ほとんど強引なまでの離婚率の低さです。家族道徳を異様なほど強調して、一度結婚したら絶対に離婚をするなという仕組みを普及させた。この両者の組み合わせによって、もはや農村社会ではないにもかかわらず、家ごとに(夫が)ひとつの仕事さえきちんとやれば、最低限ご飯は食べられるという江戸時代のような社会を無理やり延命させた。しかし、リストラや離婚が日常茶飯事になった今の日本は、この「再江戸化」も限界に達して、「中国化」へと移行する局面にあるというのが、本書の主張です。
■日本人が江戸時代に憧れを抱く理由
――世間一般を見ると、江戸時代、小説やテレビドラマの題材になるなど、特に人気のある時代です。中には「江戸時代に生まれたかった」ということを言う人までいたりします。江戸時代を好む人の多くは、どこに魅力を感じているのでしょうか?
與那覇 ひとつの理由は、先ほど説明した家職制度に見られるような安定性ではないでしょうか。つまり、やれる仕事は家ごとに決まっていて、大金を稼ぐことはできないけど、最低限食べることには困らない。もうひとつ、一方的な勝ち組と負け組に分かれるのが日本人は嫌いなんでしょうね。誰もがお互いに我慢しながらやっていくというのは、日本人がジーンとくるモラルなんです。その究極系が江戸時代なのですが、でも、それはある意味で、100パーセント満足している人が誰もいない社会です。たとえば、武士は政治的には威張っているけど貧乏で、商人は裕福だけど武士より身分が低いから、大名行列が通ると頭をさげなければならない。
――それに関連してですが、江戸時代の身分制度が、士農工商ではなかったというのは本当ですか?
與那覇 学問的な近世史では昔から常識なのですが、江戸時代の身分制度が、士農工商の4分割だったというのは正確ではありません。制度的には4分割というより、むしろ3大身分制でした。武士は当然一番上なのですが、残りは百姓と町人にわかれて、どちらが上の身分というのはなかった。しかも今の戸籍にあたる宗門人別帳のうち、村の台帳に載っている人が百姓で、町の台帳に載っている人が町人なので、百姓だからといって「農民」とは限らない。そもそも士農工商は漢文のフレーズです。士農工商の「士」を日本人は武士だと思っていますが、それは日本が儒教の導入が遅かった特殊な社会だからです。儒教社会である朝鮮や中国では、士は武士のことではなく士大夫の士です。つまり、科挙に受かって儒教思想をよりよく修め、国家に認められ、天下国家を担う人が士なんです。
――他にもプロの歴史学者と一般の歴史ファンでは、とらえ方が違うなというものはありますか?
與那覇 本書でも書きましたが、それはもう戦国時代ですね(笑)。今も昔も戦国時代ファンは多いですが、多くの人が思っているような時代ではありません。どうしてあれだけ戦争をしていたか。それは食べ物がないから、食糧の奪い合いだったわけです。先ほども述べたように江戸時代初期の新田開発までは、稲作が完全には普及していないので、毎年、慢性的な大飢饉状態が続いていたのが戦国時代です。
――まさに生存競争を繰り広げていたと。
與那覇 そうです。ドラマなどでは武将たちが高邁なビジョンを掲げ、それを競い合うカッコいい合戦の様子が描かれていますが、実情は、飢える寸前で、血みどろで食べ物の取り合いをしているのが戦国時代です。大河ドラマなんかよりも、たとえばアフリカの内戦のドキュメンタリーとかを見た方が、「本当の戦国時代」に近づけると思いますよ。逆にいうと、それを克服して生まれた秩序だったから、日本人はいつまでも「江戸化」を諦めきれない。
――本書は話題を呼んでいますが、一方で困った反響などはありますか?
與那覇 タイトルだけを見て悪口を言うのはやめてほしいですね(笑)。もうひとつ、「中国化が優れていると著者は主張している」という誤読が多いです。中国のほうが歴史的には「進んだ」社会で、これからは日本も「再江戸化」が維持不可能になって、中国のような社会になるとは言っていますが、それが「良いものだ」とは一言も書いていません。そういう誤読をする方は、無意識のうちに「進んでいるというのは良いことだ」という価値観を前提にしている。それは要するに、人類は進歩しているという幻想を信じているということです。多くの宗教的世界観では、人類はむしろ退化していく。人類が進歩しているという思い込みこそが、近代ヨーロッパに見られる特殊な歴史観で、いま、先行きの見えない不安定な世界で私たちが直面しているのは、そういう思い込みの「終わり」です。
本書は歴史に詳しくない著者でも十分に楽しむことができた。何といっても、この本を読むと、現在の社会を見る新しい視座が与えられることだろう。お薦めです。
(構成=本多カツヒロ)
●よなは・じゅん
1979年生まれ。東京大学教養学部超域文化科学科卒。東京大学大学院総合文化研究科地域文化研究専攻博士課程単位取得満期退学。博士(学術)。日本学術振興会特別研究員等を経て、現在、愛知県立大学日本文化学部歴史文化学科准教授。専攻は日本近現代史。著書に、『翻訳の政治学――近代東アジア世界の形成と日琉関係の変容』(岩波書店)、『帝国の残影――兵士・小津安二郎の昭和史』(NTT出版)がある。
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