“連載を一度も休まなかった”「週刊現代」だけが知る故・立川談志の晩節
#雑誌 #出版 #元木昌彦 #週刊誌スクープ大賞
第1位
「さよなら、談志師匠 がんと闘った『最後の日々』」(『週刊現代』12月10日号)
第2位
「ボーナスは『安すぎる日本株』を買え!」(『週刊ポスト』12月9日号)
第3位
「東国原英夫前宮崎県知事『まな板の上で開チン』写真」(『フライデー』12月9日号)
大方の予想通り橋下徹が大阪市長選で大勝した。大阪府知事の方も維新の会の松井一郎が大差で当選して、大阪は”独裁者”橋下の天下になった。
景気の悪化で失業率が高い大阪市民が、誰でもいいから今の状態を「チェンジ」してくれる人間に一票を投じた心理はよく分かる。
だが、彼がやろうとしている教育改革や生活保護費の見直しは、偏狭な教育の押しつけや財政再建の名の下に弱者を切り捨てることにつながらないだろうか。
これまでは、改革が思うように進まないのは平松邦夫市長のせいだと言い訳できたが、これから本当の手腕が試されるのだ。政権交代とだけ言い続けて政権をもぎ取った民主党のその後の惨状を見るにつけ、橋下強権政治にはちょっぴりの期待と、大いなる不安がある。
私の畏友・宮崎正弘がメルマガで大阪「都」構想をこう批判している。
「都という不遜な呼称を無造作に用いる、その語感と歴史認識への大いなる疑問である。大阪には嘗て浪速宮がおかれ、中世の都があった。信長が敵対しても落とせなかった大阪城は石山本願寺、一向宗の聖域であり、宗教の中心地だった。その後、秀吉は石山本願寺跡に壮大な大阪城を構築し、天下に号令を発する政治都市とした。だが都は京におかれたままだった。家康は政治中枢を江戸に移したが、京に天皇はおられたままだった。すなわち都とは、天皇陛下のおすまいがある場所を指す」
さて、その橋下に食らいついておこぼれにありつこうとしている宮崎県前知事でタレント・そのまんま東の仰天写真が今週の第3位。
2006年6月に撮られた写真だというからかなり古いが、二度と見たくないほどド迫力、かつ醜悪な写真である。
この時期は、東が「地方自治を実践する」といって早稲田大学で政治を学んでいた。知り合いになった政界関係者や官僚、政治に興味を持つ若者たちを自宅マンションに呼んで「勉強会」と称した呑み会をよくしていたそうである。
そんな勉強会の最中に撮影されたものだ。私の周りにも呑むと裸になって騒ぎ狂う連中は少なからずいる。故・立川談志さんは、彼を慕ってくる芸人、歌舞伎役者、歌手に、酒を呑んでいる席で「裸になれ」と命じていた。そういわれて素っ裸になれない奴は一流にはなれない、それが談志流人間観察術だった。
だがこの写真はそうではない。その日開かれた勉強会には、東が交際していたMさんという女性も来ていた。彼女は大手商社社員夫人だが、東との交際はMさんが大手都銀の独身行員だった頃からで、結婚後も関係は続いていた。
Mさんは結婚してからも、家庭でもめるたびに東のところへ転がり込んで、数カ月単位で居続けることがあったそうだ。
問題の写真が撮られた日、Mさんは参加者の目の前で「なんであんたは他の女に手を出すの!」と東を叱責し、その怒りが次第にエスカレートしていった。
防戦一方だった東が、彼女に向けて「だったら、(浮気をしないという)証拠をこれから見せてやる」と啖呵を切り、まな板を取り出して全裸になり、自分のイチモツをそこへのせ、包丁で切る真似をした。それを参加していたメンバーが撮って盛り上がったそうである。
その後、Mさんは夫の海外赴任でシンガポールへ行った。選挙に出るにあたってスキャンダルになることを恐れた東は、自らシンガポールへ飛んで関係を精算したそうである。
この写真は東という男の品性を丸ごと写し出している。不倫相手から責められ、開き直って真っ裸になった男の無様な写真を見て、県知事に彼を選んだ宮崎の人たちは、どう思うだろうか。
私は株とかのマネーゲームにはまったく関心がない。競馬は毎週やってはいるが、賭け金は雀の涙ほどである。
実は、これまで2回だけ株を買ったことがある。もはや時効だから話すが、一度は野村證券の某部長に勧められて二部上場の聞いたこともない会社の株だった。
2度目は、政商といわれ仕手株で大儲けしていた頃の某氏に言われて、仕方なく買わされた。これも知らない会社の株だったが、2度とも数日のうちに倍以上値上がりしたのだ。
そのわずかな経験で、2度と株はやるまいと決めた。大手証券会社や大物仕手筋が巨額なカネを動かして株価を左右する世界では、個人がいくら頑張っても勝てるわけはない。それよりもわずかなカネを握りしめて競馬場へ行く方が自分の身の丈に合っていると思ったからだ。
第2位に「ポスト」の株の記事を取り上げたのは、もし日本株を買うのなら、先日日本に来た投資家ウォーレン・バフェットが言っていたように、今なのかもしれないと、しばらく前から思っていたからである。
私には投資する資金はないから、客観的に見ることができる。これは競馬も同じである。馬券を買わずに予想すると的中率は格段に上がる。それが馬券を買い出すと欲との2人連れになるから、あらまほしい馬券ばかり買うようになって、最終レースが終わるととぼとぼとオケラ街道を歩くことになるのだ。
「ポスト」が言うように、日本企業の内部留保は257兆円もある。これは史上最高レベルだ。円高にも、すでに多くの輸出企業では対応ができている。なのにメディアは、不景気は自分たちの裁量が増えるから大好きな官僚たちに踊らされ、そうした情報しか受け取れない国民は、重税にも給与カットにも「仕方ない」と諦めてしまっている。だがその裏で、政・官・財・報の既得権益者たちが大笑いしているというのである。
では、どの銘柄を買うのか。個人投資家向けに投資情報を提供する「カブ知恵」の藤井英敏代表が5つの条件をクリアした銘柄39を紹介している。
5つの条件とは、時価総額300億円超、ROE(自己資本利益率)7%以上、PRB(株価純資産倍率)1.0倍以下、予想配当利回り2.0%以上、過去3年平均売上高成長率5%以上。
5銘柄だけ抜き書きしてみる。「サッポロホールディングス」(株価286円=以下同じ)「旭化成」(444円)「コスモ石油」(195円)「三井金属鉱業」(178円)「日産自動車」(666円)
いかがだろうか、ボーナスでなくても、ポケットマネーで買えるほどたしかに安い。あとは自己責任でどうぞ。
立川談志師匠が亡くなった。予想したことではあったが、以来、テレビ、新聞、雑誌で師匠の落語とその生き方が取り上げられ、あらためて立川談志という人間の大きさと、いなくなってしまった寂しさが広がっている。
私は大学時代から立川談志が好きで、紀伊國屋ホールや寄席に聞きに行っていた。親しくお付き合いするようになったのは40を過ぎてからである。
こんな思い出がある。私が「フライデー」の編集長だったとき、「幸福の科学」と大騒動があり、歌手の小川知子や直木賞作家の景山民夫ら信者たちが、講談社の前をデモする姿が毎日のようにワイドショーで放送された。
心配してくれた談志師匠が、景山と仲直りしないかと言ってきた。有楽町のマリオンでやる「ひとり会」へ景山を呼ぶから、一緒に舞台へ上がってくれ。そうすればオレが奴に話すというのだ。
立川流にはBコースというのがある。ビートたけしや景山はそのBコースで、談志は彼らの師匠ということになるから、落語の世界で師匠は絶対的な存在である。
厚意はありがたくいただいてお断りしたが、そのあとに景山は自宅で風呂に入っているとき火事が出て亡くなってしまったという。
「フライデー」編集部にビートたけし軍団が殴り込んだ事件のあとも、たけしとの仲を取り持とうかと言ってくれた。懐かしい思い出である。
「週刊現代」の編集長のときには、談志師匠に「談志100選」を連載してもらった。師匠が選んだ名人上手を毎回取り上げ、それに山藤章二画伯の絵を付ける豪華な連載だった。これは講談社から本になって出ているが、師匠も大変喜んでくれて、会うたびに「あれはオレの会心の作だよ」と言っていた。
一昨年の暮れ、上野の鰻割烹伊豆栄梅川亭で少人数で「談志を聴く会」を、作家の嵐山光三郎と共同で開いた。この頃は体調が悪く、トイレに行くのも障子を伝い歩きしてやっとだった。
にわかごしらえの高座へも弟子に手伝ってもらって何とか上がったが、座っているのが辛くて、ついには足を前に投げ出してしまうほどだった。
ダンディな師匠には辛かったに違いないが、1時間半ほどジョークから噺のさわりを、出ない声を振り絞って語ってくれた。
これが最後の高座になるかもしれないと、そのときは心の底で思っていた。
だが、年が明けて、あれだけ嫌いだった病院に自ら入り、毎日やっていたビールとハルシオンを飲むことを断ち、奇跡のように体調がよくなってきた。
もう一度高座で落語をやりたい、その一念がそうさせたのだろう。
立川志らくたち弟子の落語会へも出かけて、ジョーク集をやっては客を喜ばせた。そして昨年暮れの読売ホールで、これも奇跡のように見事な「芝浜」を演じたのだ。
満員の観客は感動で動けなくなり、師匠もしばらくはジッとして余韻を楽しんでいたという。
年が明けても順調そうだった。しばらく大丈夫かもしれないと思っていたのだが、病魔は確実に体を蝕んでいたのだ。
「現代」で師匠の息子は、昨年11月に医者から咽頭がんが再発していることを聞かされていたと話している。
声帯摘出がベストだと医者は言うが、それを父がよしとするわけもないから、告知しなかった。だが、暮れに告げると、予想通り手術はしないという答えが返ってきた。「プライドが許さねぇ」と言ったそうだ。
しかし今年3月になって切開手術を決断した。そのため、話せない、食べられないために、ほとんど寝たきりの状態になってしまう。
筆談でやり取りするしかない。「立川志らくがとってもよくなってきた」と身内が話すと、そうかそうかと喜びながら、「でも、オレが一番」と書いてよこしたそうだ。
10月27日に容体が急変する。ほとんど意識が戻らないまま11月21日に永眠。
「現代」には私が仲介して始まった連載「談志の時事放談 いや、はや、ドーモ」があるだけに、他誌の追悼特集を圧倒している。
驚くことに、この連載は一度も休んでいない。苦しい中でも乱れる字ながら書き続けてきたのである。
病気には一度も触れていない。珍しく10月の終わりの原稿で「女房(ノン)くんのこと」と、奥さんのことを書いている。
「ある時、俺が怒った。そのときの態度がよかった。”怒られちゃった”。可愛いの何の、俺、この一言でこの人を嫁さんにと決めてよかった」
書いておきたかったのだろう。
「現代」には、病状に触れているため、身内が担当者に渡さなかった原稿が掲載されている。海が好きだった師匠が、各地の海の思い出を書き綴っているのだが、最後にこう書かれていた。
「もう無理だ。家元、ノドに穴をあけられ喋れず、唯、家でじっとTVを見ているか、こんな文章を書いているだけになったのだ。人間、何が来るかは判らない。まさか喋れなくなるとは思わなかった。手術は断るべきであった。おまけに胃袋に管で食事を入れるだけ。そうなると味覚もない。その前に食欲がわかない。何だろう。生きる『シカバネ』そのまんまである。(中略)誰かが昔、云った。談志さんは何も云わなくてもいいのですよ。高座に座っててくれればネ。昔、俺も同じような事を志ん生に云ったのだ。勿論本気で云ったのだが。手前ぇがそうなるとは、つゆ思わなかった……」
私もそう言った。高座で寝ててもいいから生きていてくださいと。
モノクログラビア最後のページで、自宅近くの根津の銭湯で湯に浸かっている写真の表情がとてもいい。「銭湯は裏切らないね。いつ行っても絶対に気持ちイイ」。そう、その通りですね、師匠。
(文=元木昌彦)
●元木昌彦(もとき・まさひこ)
1945年11月生まれ。早稲田大学商学部卒業後、講談社入社。90年より「FRIDAY」編集長、92年から97年まで「週刊現代」編集長。99年インターネット・マガジン「Web現代」創刊編集長を経て、06年講談社退社。07年2月から08年6月まで市民参加型メディア「オーマイニュース日本版」(2006年8月28日創刊)で、編集長、代表取締役社長を務める。現「元木オフィス」を主宰して「編集者の学校」を各地で開催、編集プロデュースの他に、上智大学、法政大学、大正大学、明治学院大学などで教鞭を執る。
【著書】
編著「編集者の学校」(編著/講談社/01年)、「日本のルールはすべて編集の現場に詰まっていた」(夏目書房/03年)、「週刊誌編集長」(展望社/06年)、「孤独死ゼロの町づくり」(ダイヤモンド社/08年)、「裁判傍聴マガジン」(イーストプレス/08年)、「競馬必勝放浪記」(祥伝社/09年)、「新版・編集者の学校」(講談社/09年)「週刊誌は死なず」(朝日新聞社/09年)ほか
よそう、また夢んなるといけねぇや。
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