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萱野稔人の"超"現代哲学講座 第14回

死刑肯定論や犯罪の正当化も根は同じ!? 道徳的判断を貫く「ふさわしさ」

──国家とは、権力とは、そして暴力とはなんなのか……気鋭の哲学者・萱野稔人が、知的実践の手法を用いて、世の中の出来事を解説する──。

第14回テーマ「近代刑法学の祖から見た死刑と道徳」

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[今月の副読本]
『犯罪と刑罰』
ベッカリーア著/岩波文庫(59年)/693円

フランス革命から遡ること25年前に上梓され、封建的刑罰制度の中で執行される、死刑と拷問の廃止を訴えた初の書物として名高い。その後、フランス革命を経て、近代刑法の礎を築くきっかけとなった。


 前回は、道徳はどこまで普遍的なものなのか、という問題を取り上げました。そこで考察の対象となったのは「人を殺してはいけない」という道徳と死刑との関係です。2009年の内閣府の世論調査では85.6%の人が死刑制度を容認していたことからわかるように、多くの人は「人を殺してはいけない」と確信しながらも、処罰のためには凶悪犯を殺すのもやむをえないと考えています。つまり、どのような場合であれ(たとえ凶悪犯を処罰するためであれ)人を殺してはいけない、とは考えていないんですね。「人を殺してはいけない」という道徳には例外がある、ということです。

「例外がある」とは、言い換えるなら「どんな場合でも守られるべき普遍的な道徳ではない」ということです。「人を殺してはいけない」という道徳は、あらゆる社会に見いだされ、かつ私たちが考えうる最も究極的な道徳です。にもかかわらずそれが普遍的なものではないということは、道徳そのものが実は普遍的なものではない、ということにもなってきます。果たして、道徳とは普遍的なものなのでしょうか、それとも時と場合によって左右される相対的なものにすぎないのでしょうか。

 死刑を多くの人が容認しているという事実から「道徳は普遍的なものではない」と結論付けるのは、実はそれほど難しいことではありません。問題はその先です。道徳は普遍的なものではないということなら、私たちはなぜそれにもかかわらず道徳的な「正しさ」を追究することをやめないのでしょうか。私たちは日常的にさまざまな事柄を「善い・悪い」と道徳的に判断していますが、それは行き当たりばったりの脈絡のないものにすぎないのでしょうか。確かに、多くの人が「人を殺してはいけない」と考える一方で、凶悪犯を前に「奴を殺せ」と考えるのは、一貫していないかもしれません。しかし、そのどちらもが道徳的な判断として出されている以上、両者の一貫性のなさの背後には、それぞれの判断を成り立たせる、より根本的な道徳意識があるはずです。これは、道徳の源泉はどこにあるのかという本質的な問題にかかわっています。これを考えるために、再びカントの道徳論を取り上げましょう。

 前回もお話ししたように、カントは、道徳は普遍的でなければならないと考えました。つまり、時と場合によって左右されるようなものであってはならない、と。例えば「悲しむ人がいるから、人を殺してはいけない」という命法は、決して道徳ではありません。なぜなら、この命法に対しては「悲しむ人がいなければ、人を殺してもいいのか」という反論が成り立ってしまうからです。「人を殺してはいけない。なぜなら、自分がされたくないことを人にしてはならないからだ」という命法も同じです。ここからは「自分は殺されてもいいと思う人は、人を殺してもいいのか」という反論が必然的に生まれてしまいます。

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最終更新:2011/10/06 21:05
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