本当に、人を殺してはいけないのか? 死刑が揺るがす道徳の普遍性
#萱野稔人 #プレミアサイゾー #超現代哲学講座
──国家とは、権力とは、そして暴力とはなんなのか……気鋭の哲学者・萱野稔人が、知的実践の手法を用いて、世の中の出来事を解説する──。
第13回テーマ「殺人の正当化と定言命法の普遍」
[今月の副読本]
『実践理性批判』
カント著/岩波文庫(79年)/903円
絶対的な道徳というものは存在しうるのか? また、人は自らの意思により、それに従うことはできるのか? 『純粋理性批判』『判断力批判』と併せた三批判書により、批判哲学の祖を築いた哲人による倫理学の名著。
道徳の中で最も普遍的で根本的なものとはなんでしょうか。多くの人はおそらく、人を殺してはいけないという道徳だ、と答えるでしょう。
実際、「人を殺してはいけない」という道徳はあらゆる社会に見いだされるものであり、また、「嘘をついてはいけない」とか「盗みをしてはいけない」といった道徳よりも、はるかに多くの人によって守られています。もちろん殺人事件は常に世界のいたるところで起こっている以上、「人を殺してはいけない」という道徳は完全に守られているわけではありません。しかしそれでも、殺人事件が起こればほとんどの人は条件反射的に「よくないこと」と考えるほど、「人を殺してはいけない」という道徳は確固たるものとして人々の間に根付いています。
しかしその一方で、「正しい」とされる殺人も時として存在します。たとえば死刑です。
死刑制度については内閣府が5年ごとに世論調査を行っており、2009年の調査では死刑制度容認派が85.6%に上りました。これは内閣府が1956年に調査を始めて以来、最高の数字です(かつては5年ごとの調査ではありませんでした)。もちろんこの数字の中には、積極的な死刑支持派だけでなく、「死刑制度存続もやむなし」と考える消極的容認派もいるでしょう。また、しばしば批判がなされるように、内閣府の質問の仕方によっては、この数字がある程度低くなる可能性もあるでしょう。とはいえ、それでも85.6%という数字は圧倒的です。少なくとも世論調査された人々の大多数が、凶悪犯罪をなした人間に対しては、処罰のために殺すこともやむを得ないと考えているわけですから。
おそらく読者の中には「死刑は殺人ではない」と考える人もいるかもしれません。確かに死刑はほかの殺人とは異なっています。というのも、死刑は法に従って合法的になされるものだからです。しかし、だからといって、ある人間がほかの人間によって死に追いやられること自体は変わりありません。間違ってほしくないのは、死刑は、たとえそこにどれほど「正しい」理由があったとしても、それによって殺人でなくなるわけではない、ということです。
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