「福島から、一緒に未来を歩いてゆく」詩人・和合亮一 その言葉とともにあるもの
#本 #インタビュー #原発 #東日本大震災
「放射能が降っています。静かな夜です。」(『詩の礫』引用)
東日本大震災の発生から6日目の3月16日夜、福島県福島市在住の詩人・和合亮一はTwitter上に言葉を投下し始めた。福島第一原発が1号機、3号機に続き、4号機でも水素爆発を起こした、その翌日だった。
「放射能が降っています。静かな静かな夜です。」(『詩の礫』引用)
それから、詩人は毎日ツイートを繰り返した。ときに具体的に、ときに観念的に、その言葉は詩人と福島の極限的な状況を伝えた。詩人のTwitterアカウントは瞬く間に拡散され、やがて詩人の言葉は「詩の礫(つぶて)」と名付けられた。震災の最中にあって、多くの読者が「詩の礫」に触れ、直接に詩人と言葉を交換した。
「しーっ、余震だ。」(『詩の礫』引用)
立て続けに発生する震度4、震度5という大きな余震に揺さぶられながら詩人が綴った「詩の礫」は、一冊の本になった。震災から100日あまりが経過した6月下旬、上京していた詩人・和合亮一に会いに行った。
――震災時は勤務先の高校にいらっしゃったと伺っています。
和合亮一氏(以下、和合) 伊達市内の高校にいました。いままで体験したことのない、動物の背中に乗っているみたいな、そういう揺れでしたね。想像の域を超えたような揺れ。ただ、そのときはこんなに大きな被害が出るとは思っていなかったんです。2~3日もすれば日常生活に戻れるだろうと。ところが、その日の夜に、余震がひどくて駐車場で夜を明かそうとしていたら、ラジオから「仙台の若林区に300人の遺体が流れ着きました」という声が流れてきた。その情報を耳にしたときに、これはすごいことが起きているな、こんな破壊的なことって、経験したことないな、と。今回の震災が、衝撃を持って実質的に自分の中に入り込んできた感じでした。
――その後の3日間は避難所で過ごしたそうですが、書くことへの意欲が湧いてきたのはいつごろでしょうか。
和合 その3日間はほとんどライフラインが止まっていたので、食料や水を確保することで1日が手いっぱいでしたね。ただ、手帳にメモを書いていました。いままで自分が書いたことのないようなメモです。ずっと、ひっきりなしに書いていたんです。いま思えば、震災のショックで、書くことに徹していたような気がしますね。
――そのメモは、理路整然としたものなのでしょうか。
和合 すごく、幼稚な文章です。誰がこういうことを言ったとか、列に並んだ、並んで水をもらった、パンをもらった、そういうことですね。それと、飛び込んでくる死者の数をメモしていたり。何か、とにかく目の前であったことを書かずにはいられなかったんです。そうして自分自身を守ろうとしていたのかもしれません。
――とにかく、気を鎮めるため。
和合 気を鎮めるためですね。
――3月16日からTwitterへの投稿を始められるわけですが、その冒頭で「物の見方、考え方が変わりました」と書かれています。
和合 そうですね。それまで、原発は絶対安全だと言われていたし、福島にも地震は来ないと言われてきた。そういう目の前のものが、すべて崩壊に向かっていくような、そういう風景が見えたんです。自分の言葉自体も崩れて、がれきになってしまったような、そういう印象がありましたね。
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「行き着くところは涙しかありません。私は作品を修羅のように書きたいと思います。」(『詩の礫』引用)
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――16日前後と言うと、原発が爆発した直後で、命の危険というものも感じていたのではないでしょうか。
和合 それはすごく感じましたね。もっと大きな爆発があるんじゃないか、という不安もあったし、とにかく余震が多かったので。『風が吹くとき』(あすなろ書房)という絵本があるんですが、それを思い出していました。
――そんな状況下で「作品を修羅のように書く」とは、どのようなことでしょうか。
和合 根源的な情動のようなものですね。初期のころの「詩の礫」は全部、即興なんです。思い付いたことをそのままツイートするという。ものを書いてきた人間の本能というか、いま思い出しても、自分が書いたんじゃないような、夢を見ているみたいな感覚です。キーを叩いていても、そこに自分の人格がない。自分自身が言葉にすがっている。ここに生きているということと、Twitterに言葉を投げ込むということが、同じレベルにあったんだと思います。
――詩を書く、という行為そのものが変わってしまった。
和合 いままでは、現代詩の技法というもの、その完成度を思いながら書いていたんです。比喩をどう使って、完成度の高いものを書くか、次には、その完成度をどう壊すか、そういう作業をしてきたんですが、震災後にはそういうものをすべてブン投げちゃった。完成度が高いとか低いとか、そういう価値基準や判断を持っていることがバカバカしくなってしまったんです。もう詩人としての勝負は辞める、と。震災前までは、僕の読者、詩集を買ってくれる方々というのがいて、僕は作品を書いてその読者に届ける、ということを考えていたんですけれど、震災後はまったくそういう想定がなくなってしまった。「詩の礫」も、誰かに届くということは考えていなかったですね。
――「詩の礫」はTwitter上で、和合さんのことを知らなかった人たちの間で広く拡散されていきました。そうした新しい読者の反応をリアルタイムで見ながら書いていたということですが、作品を発表した瞬間に具体的なリアクションが返ってくるというのは、どういう体験でしたか。
和合 言葉の力をもらっている、という感覚ですね。メッセージをもらうと、自分の中に波が立ってくる。波が立ってくるから、また書こうと思える。僕は詩の朗読を20年間やってきたんですが、そのときの感覚とすごく似ています。現場性がある。呼吸が一致しているという感じがするんですよ。見てくれている人と、一緒になっている感じ。パソコンの画面がうねっているような、Twitterを通して、いろんな人の呼吸が感じられるんです。
4月1日に、10回目の「詩の礫」を書いているとき、不思議な体験をしました。そのころの「詩の礫」は、ある程度準備をして、メモを横に置いて作っていたんですが、2時間書き続けたうちの後半の1時間に、メモをまったく見なくても書ける、即興で書けるという状態になったんです。この詩はラストにはどうなるんだろうという不安を感じながら、言葉がどんどん出てきた。最後は海に行って、水平線に美しい一艘の帆船が見えた、というところで終わるんですけど、それも最初からそういう展開になるとはぜんぜん思っていなかった。みんなの呼吸がそうさせてくれたっていうね。それまでの「詩の礫」とはまったく違う感触だったんです。その最後に「みなさんと一緒に未来を歩いた気がします」と書いたんですが、ネットでそういう目覚めのようなものを感じることは、震災前にはなかったことですね。
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「11438人の影(日本中の詩友よ、今こそ詩を書くときだ、日本語に命を賭けるのだ、これまで凌ぎを削ってきた詩友よ、お願いする、詩を、詩を書いて下さい、2時46分、黒い波に呑まれてしまった無数の悲しい魂のために、お願いする、私こそは泣いて、詩友に、お願いする。)がバス停を過ぎる。」(『詩の礫』引用)
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――震災直後から和合さんの詩を読んでいた方というのは、直接大きな被害を受けていない方や、被災地にいてもインフラの復旧が早かった方が主だったと思うんですが、自分も含め、そういう人たちの間には「自分には何もできない」という無力感とともに、自分が被害を受けていないという事実に対して罪悪感のようなものがあったと思うんです。そういう人たちにとって、毎日更新される「詩の礫」というのが「この詩を読んでいる間、私は福島とともにある」という実感が得られるものとして機能していたのではないかと感じるんですが、和合さんご自身はその期間、詩人として、社会の中である役割を担っていたという思いはありますか。
和合 メッセージを、たくさんいただいたんですね。「情報に追われて生活をしていて、つらい中で、このTwitterを読んだことで静かな気持ちになり、いろいろ考えることができました」とか、両親を残して福島を離れている方が、「福島の状況を知りたい、父と母のことを考えたいから読んでいる」とか。そういうメッセージやお手紙をいただくんです。「心配で心配でしょうがなくて、いろんな人に話を聞きにいったんだけど、どの人の説明も、自分の心を満足させてくれなくて、『詩の礫』を読んでると、自分が求めてるのは、詩人の語りなんだな、と思いました」とか、「お父さんお母さんを亡くして、それでもう、何も考えられない日々を過ごしてたんだけど、この詩を読んで、まず泣いた、ずーっと泣いた、一日泣いてた、泣いたら、次どうしようかってことを考え始めることができました」って、どれもすごく丁寧に書かれていて。そうして待っている人がいるのであれば、書こうと思うんです。それを、物書きとしての役割と言っていただくのはすごくうれしいことですけど、本気で気持ちを救うことができるのであれば、少しでも手助けができるのであれば、それは続けたいと思いますね。
――詩人だから詩を書く、というのではなく、重そうな荷物を持ってあげていたような感覚でしょうか。
和合 そう。だから「詩の礫」って名前は付けているけれど、書いたものに詩が宿ってきてくれればいいかな、と思うんです。
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「うるせえ、放射能をぶっ潰してやる。震災をぶっ潰してやる。」(『詩の礫』引用)
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――「詩の礫」では、怒りの感情もすごくストレートに表現されています。地震に対して、地球に対して。その反面、誰か人間に対して怒っているという部分は見当たらない。例えば避難所やガソリンスタンドには自分勝手な人がいたかもしれないし、地元の行政にもいたかもしれない。もちろん東電や、政治家にも不満や怒りは大いにあったと思うんですが、「詩の礫」を公開していく中で、これは詩に書いてはいけない、この気持ちを表現してはいけない、と決めていたことはありますか。
和合 そこはやっぱり、詩だ、という意識があるんですね。詩である限り、何か高潔なものでありたいという気持ちがある。人を傷付けるものにはできないという。宮沢賢治の言葉に出会ったんです。「新たな詩人よ 嵐から雲から光から 新たな透明なエネルギーを得て 人と地球にとるべき形を暗示せよ」っていうね。詩を書くことの意味って、人と地球、人の次に地球が来るっていうのが、詩ならではの働きかけなのかな、と。だから今回の『詩の礫』を書いているときにも、誰かを傷つけてはいけない、被災者の人たちの気持ちを追い込んではいけない、という思いは、書く基準としてあったと思いますね。
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「美しく堅牢な街の瓦礫の下敷きになってたくさんの頬が消えてしまった」「こんなことってあるのか比喩が死んでしまった」(『詩の礫』引用)
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――「比喩が死んだ」という表現をされていましたが、確かに今回の震災で、多くの言葉が意味を変えました。例えば「原発」という言葉もそうですし、サザンオールスターズの「TSUNAMI」という曲もそう。報道の中で「市街地が壊滅しています」とNHKが繰り返している。それはフィクションの中でしか聞こえてこなかった表現だったはずですが、現実が比喩を追い越していくという状況を、言葉の表現者としてどのように受け止めていくのか、あるいは、日本語がここまで大きく姿を変えたとき、詩人はそれとどう向き合うのでしょうか。
和合 やっぱり詩を書くということにおいては、直接的でなくとも、比喩を追い求めていかなくてはいけないと思います。言葉が醸し出す何がしか、言葉の影のようなものを追いかけていかなくちゃいけない。おっしゃる通り、今は完全に現実が比喩を追い越してしまって、比喩というものが極限状態では成立しないということを、まざまざと見せ付けられたわけです。言葉が、まったく表情を変えてしまった。例えば「福島」なんて、震災前は「ふぐすま」なんて言われて、何もない土地だという印象だったけれど、今は世界中の人たちが分かってしまう。カタカナで「フクシマ」っていう、なんだか鋭くて恐ろしい言葉に変わってしまった。そういう言葉の表情一つひとつが変わってきた中で、変わってきたものを並べながら、やっぱり比喩を作っていくしかない。比喩を作るっていうのが詩人の命ですから、直喩にしろ擬人法にしろ暗喩にしろ、どうにかして比喩を成していかなくちゃいけないというのが、これからの課題だと思うんです。僕が選んだ方法というのは、とにかく目の前のことを、ドキュメントとして書いていく、記録として書いていく、いまあることを、いまあるままに発信していく。その中で、そこに新しい比喩が宿っていけばいいな、というふうに思いながら、実は書いています。
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「目をあけた 福島の子よ」「雨の夜を歩き通した 子どもよ」「一番最初の きみの 夜明けだ」「生まれてきて くれて ありがとう」(『詩の礫』引用)
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――実は今日、一番聞きたかったのは、まさに和合さんがおっしゃっていた「フクシマ」という日本語の話なんです。もう世界中の人が、「チェルノブイリ」「スリーマイル」と言うときと同じ顔で「フクシマ」と言う、そういう状態になってしまったことは動かしようがなくて、それでも福島には、今もたくさんの子どもたちが暮らしている。彼らは、福島生まれ福島育ちという事実を一生背負っていかなければならない。健康被害ももちろん心配ですが、その思想やアイデンティティーにも大きな影響を与えることだと思うんです。汚染された地域で育った人間である、と見られ続けていく彼らに対して、私たち、日本の大人たちは、何をどう伝えていったらいいのだろう、ということなんです。
和合 そこがですね、僕がいま、ずっと考えていることなんですよ。放射能とともに暮らすという現実が、これからずっと続くと思うんですね。簡単に「子どもを逃がせ」って言ってくる人もいるけれど、例えば自主避難をしたとしても、避難した先でどう暮らすか、そこには仕事もなければ生活の基盤もない、お金だって下りないし、生きていけないんです。そういう現実を、福島は抱えてるんですよ。それは福島の空気の中で暮らさないと分からないことだし、浜通りには浜通りの空気の中で暮らさないと分からないことがある。一度故郷を離れたらもう戻って来られないという気持ちもあるし、親の問題もある。いま避難せずに生きている人たちって、何らかの理由があって福島にいるわけです。だから、福島で生きていく限り、それを大人たちがもっと語れるようになっていかなければいけない。福島の人たちの気持ちの拠りどころになれるような言葉を、僕はずっと自分の中に探しているんです。一言なのかもしれないし、長いフレーズなのかもしれない。今はまだ、分からないです。大人が子どもたちにどう接したらいいか、分からないです。言葉は何も解決しないでしょうけれど、何か時代のよすがになれるような言葉を、あれからずっと考えているんです。このままだと、われわれ福島の人間は、根無し草のまま、ずっと何の発信もできずに、原発が爆発したら爆発したまま、避難しろって言われたら言われたまま、まま、まま、っていう受動的な、そういう生き方、生き様で、悔しさを抱えながら、流されて生きていかなくちゃいけなくなるんですね。だから、ここに自分たちの生き様があったんだっていう、何かそういう言葉を残したいと、今は思っているんです。
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「2時46分に止まってしまった私の時計に、時間を与えようと思う。明けない夜は無い。」(『詩の礫』引用)
(取材・文=編集部)
●わごう・りょういち
1968年福島県生まれ。詩人。高校教諭の傍ら詩作活動を行う。福島高校、福島大学卒業。99年、第一詩集『AFTER』で第4回中原中也賞、06年に第四詩集『地球頭脳詩篇』で第47回晩翠賞を受賞。詩集に『RAINBOW』『誕生』『入道雲入道雲入道雲』『黄金少年』『詩ノ黙礼』『詩の邂逅』。その他の著書に『パパの子育て奮闘記』『にほんごの話』(谷川俊太郎と共著)。ラジオ福島で『詩人のラヂオ 和合亮一のアクションポエジィー』のパーソナリティを務める。
Twitterアカウントは「@wago2828」。
歩いてゆく。
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