Facebook、Twitterを生み出したアメリカと、日本が抱える「ソーシャル(社会)」の大きな違い
#インタビュー #SNS
チュニジアで起きたジャスミン革命、映画『ソーシャル・ネットワーク』の上映などで、日本でも話題を集めているFacebook。世間一般でもTwitterやFacebookといったソーシャル・ネットワークの利活用は盛り上がりをみせている。そんな中で注目度が高まっている書籍が、ソーシャル・ネットワークという存在を、アメリカの社会や歴史、はたまた工学やデザインといった多分野から考察した池田純一氏著の『ウェブ×ソーシャル×アメリカ 〈全球時代〉の構想力』(講談社現代新書)だ。今回、池田氏に本書のテーマでもある「ウェブと社会」について、あらためて話を聞く機会を得た。
――本書のあとがきにもありますが、出版社から「ウェブと社会」というテーマで書いてほしいということで執筆されたようですが、そうした大きなテーマを扱うにあたって、まず考えたことはどういうことですか?
池田 まずは、一般によくいわれるカウンターカルチャー(1960年代から70年代に、主にアメリカ西海岸で盛り上がりをみせた、既存の体制や価値観などに対抗する文化活動の総称)が、PCやウェブを作ったとされる見方への素朴な疑問です。2つ目は、日ごろ、私たちが使っているGoogleやFacebook、Twitterはいずれもアメリカで生まれたものですが、それらが一体どのような経緯で成立したのかという話をユーザーである私たちも一度はきちんと知っておいたほうがいいと思っていたこと。そして、3つ目は、ソーシャル・ネットワークのソーシャルの意味が、日本とアメリカでどうも異なることを指しているのではないかと感じていたこと。大きくはこの3つでしょうか。
――世間一般では、反体制的なカウンターカルチャーが、PCやウェブの発展を推し進めたということはよく言われます。
池田 そのことについて、実は以前から疑問に思っていました。まず、アメリカ人の場合、カウンターカルチャーがPCやウェブを作ったと主張する人たちは、カウンターカルチャーの愛好家であるか、あるいは、そもそもカウンターカルチャー世代であることが多いわけです。アップル社に関しては、CEOのスティーブ・ジョブズがカウンターカルチャーの影響を公言してはばからないので確かにそうなのでしょう。けれども、他の人たちはどうなのか。Google社のエリック・シュミットのようなネットワークビジネスが出自の人たちや、MIT(マサチューセッツ工科大学)を出発点とするハッカーたちと、カウンターカルチャーはダイレクトにつながるのか、疑問でした。もうひとつは、日本の場合、おそらくは同時代に起こったという理由から、カウンターカルチャー時代を全共闘時代とつなげてしまいがちなのですが、それも本当にそうなのだろうかと。1968年のパリの五月革命との連想で、68年に起きたカウンターカルチャーも同じようなものとして捉えている。しかし、60年代のアメリカは経済的にすでに豊かな時代であり、日本やフランスとは社会環境が違っていたのではないか、だから「カウンター」といっても想定される内容は実はかなり違うのではないかと感じていました。
――確かにアメリカの60年代は、いわゆる映画で描かれるような中産階級が増えてきた時代ですね。
池田 そうなんです。ですから、PCやウェブをカウンターカルチャーが作ったと言い切ってしまうことで見えなくなることも多いのではないかと感じたわけです。カウンターカルチャーがすべての起源になってしまい、常にそこに戻って考えなければならなくなり、時に思考停止に陥ってしまう。そうするとカウンターカルチャーをかつて現在進行形で経験した世代だけが特権的な語り手になってしまい、それ以外の解釈を許さなくなる。けれども、アメリカでカウンターカルチャーを明らかに経験していない若い人たちが続々とウェブで起業している現実を見ると疑問を感じないではいられない。だから、確かにカウンターカルチャーの影響はあるのだろうけれど、それだけではない、もう少し相対化することで、むしろいい意味でカウンターカルチャーの財産を今の時代につなげることができるのではないかと考えました。
■アメリカのウェブサービスの独自性は「街づくり」経験から
――2つ目の、我々が使っているGoogleやTwitterなどの来歴についてですが。
池田 Googleにしても、Twitterにしても、アメリカに本社があり、アメリカで開発資金を得て成長したサービスなわけですが、私たち日本人はそのことを意識することはなく、いわばフリーライドして使っている。ミクシィや楽天、Yahoo!Japanとは違う文脈で開発されたことを忘れている。でも、その仕組やサービスがどのような経緯で成立していて、どのような方向に向かおうとしているのかということぐらいは、日々のユーザーである以上、知っておいても悪くないのではないかと思いました。過去において日本とは異なるロジックで開発され、今後も引き続き、異なるロジックで開発が進められるわけですから。
――アメリカ発のこのようなウェブサービスは独自のものが多いですが、アメリカに住んだ経験のある池田さんは、どうしてこのようなものを生み出す力がアメリカにあると思われますか?
池田 本書の6章にも書きましたがやはり、アメリカ人の場合、自分たちで街をゼロから作った経験が大きいのではないかと思います。たとえば、CityやTownなど新たに行政区域として街を作ることも、会社や法人を作ることと一緒で英語では”incorporate”と言います。”corpo”は体という意味なので、「人にする」というのが元々の意味でまさに擬人化なわけです。人に模して何かを作るという発想は共通です。街を作るのも、会社を作るのも、何かの団体や趣味の組織を作るのも、発想としては基本的には全部同じです。街はいまだに作ることができて、例えば、ある政治や宗教上の信念に基づいてコミュニティとしての街を作りたいとなれば、その土地を管轄している州の政府が認めれば、それで街ができてしまい、自治権を得ることもできる。どうも、そうしたリアルの世界でもゼロからコミュニティを作ってきた経験がウェブの中で、ビジネスに限らず、彼らアメリカ人が何か新しいことを行ってしまう理由の一つなのではないかと。ソーシャル・ネットワークがウェブの話題の中心になったところで、そのような経験や伝統の日米での違いが際立ってきているように思えます。
――3つ目の、日本で使われているソーシャル・ネットワークのソーシャルと、アメリカで使われているソーシャルとのギャップとは?
池田 日本でソーシャルというと、主には抽象的な「社会」の理念、もしくは行政区域としての「社会」をどうするか、という話題が前提になりがちです。しかし、アメリカ人がソーシャル・ネットワークから連想するのは、第一には社交や人間関係です。ソーシャルという言葉も、見知った人たちの間でのつながりぐらいのニュアンスです。ところが、日本の場合いきなりネットワークで社会をどのように変えるか、あるいは作るか、という具合に、はじめに統治対象としての社会ありきの議論になりがちです。けれども、FacebookやTwitterのようにアメリカで生まれたソーシャル・ネットワークの場合は、人をつなげていった結果生じるネットワークの集団が、そもそも社会のようなものになるのか、それとも会社のようなものになるのかはケースバイケースです。いずれにしても、社会は目的ではなく、結果の側で捉えられるように思えます。発想が逆といいますか。
■「ソーシャル・ネットワーク」もバズワードとして終わるのか
――そういうことは、ニューヨークで生活しているときに感じられましたか?
池田 そうですね。たとえば、何か大きな社会的事件起きるとバザーをやってお金を集めましょうということになる。実際、そのような話を熱心に行うご婦人たちの集団が隣のテーブルに陣取っていた経験をカフェでしたことがあります。ところが興味深いことに、それだけ相互扶助的な活動がボトムアップで生じる現実があるにも関わらず、アメリカではソーシャリズムという言葉は否定的に使われることが多いわけです。オバマ大統領がヘルスケア改革法案を出した時も、ソーシャリストだと言われて共和党支持者から非難されました。保守が自由を尊ぶアメリカの伝統では、言葉の上ではソーシャリズムは全体主義のイメージと結びつき、自由を損ねるものとして捉えられることが多いわけです。ですから、アメリカでは言葉としてのソーシャリズムは定着していない。しかし、ソーシャリズムという言葉を聞かないからといって、会社や政府、自治体が人々を助けることをやっていないかというと先ほどお話ししたようにそんなことはないわけです。むしろ、バザーやチャリティーを行ったり、そのための非営利法人もある。このような、言葉の流通の程度と現実とのギャップは、実際に生活してみてはじめて実感としてわかったことです。
――今後、ソーシャル・ネットワークはどうなっていくと思われますか?
池田 いつまでウェブをソーシャル・ネットワークと言い続けるかですね。Googleが出てきた時にこれからはサーチだと言われたのと同じように、ソーシャルという言葉もバズワードとして終わるのかどうか。ただ、先進国を中心に多くの人々がネットワークにアクセスできる環境が整ってきていて、個々の社会がソーシャル・ネットワークとどう寄り添うのかという方が重要になってきています。ですから、ソーシャル・ネットワークという言葉は表向き消えるかもしれないけれども、サーチ同様、ウェブの基本機能として環境になってしまうのかもしれません。少なくともアメリカは、その方向に向かっているように感じます。
――出版後の反響としてはいかがでしょうか?
池田 読者の立場によって、いろいろな読み方ができると思いますが、もともとはビジネスマン向けの本で、という依頼から始まったもので、実際、そのことを意識して書き進めました。ですので、「イノベーションの本ですよね」って言っていただけると非常に嬉しいですね。これから新しくものを作ろうとか、問題解決のヒントを得たいとか、いずれにしても何か新しいことを自ら試みたいと思っている人に、イノベーションの文脈で読んでいただけるのは率直に言って嬉しいです。実際、ウェブの世界でイノベーションを先導している起業や個人はアメリカに多いわけですが、おそらく、今回の震災の影響で、日本のビジネスマンも大手になればなるほど日本の外でどうビジネスを展開するかに関心が集まると思います。そのような、日本の外で何か新しいことをしようと考える人たちが、そのためにウェブとどう付き合い、どう活用していったらいいか、そのような視点で読んでいただけると嬉しいです。10年代は改めて日本の外に目を向ける時だと思います。もっとも、外に学び何でも取り入れる姿勢は日本人が昔から行ってきて得意としてきたお家芸のはずですから、むしろ原点に戻るのだと感じています。
(文=本多カツヒロ)
●池田純一(いけだ・じゅんいち)
1965年静岡県生まれ。FERMAT Inc.代表。コンサルタント、DesignThinker。コロンビア大学大学院公共政策・経営学修了(MPA)。早稲田大学大学院理工学研究科修了(情報数理工学)。電通総研、電通にてデジタル・メディア関連のコンサルティング・政策調査研究業務に従事後、ニューヨークのコロンビア大学大学院に留学。メディア・コミュニケーション産業政策・経営を専攻。帰国後、コミュニケーション分野を専門とするFERMAT Inc.を設立。
がんばれニッポン。
サイゾー人気記事ランキングすべて見る
イチオシ記事