防波堤による安全への驕りと自然災害との向き合い方
──ビデオジャーナリストと社会学者が紡ぐ、ネットの新境地
今月のゲスト
片田敏孝[群馬大学大学院教授]
国内屈指の津波対策を講じた地域──津波防災の専門家である群馬大学大学院の片田敏孝教授は、三陸沿岸についてこう語る。だが、東日本大震災では、巨大な防波堤が設置されていたにもかかわらず、膨大な犠牲者を出した地域もあれば、海抜0メートルに位置する小中学校がありながら、登校していた児童や生徒約3000人全員が無事避難した地域もある。揺れの大きさ、津波の高さなど、あらゆることが”想定外”だった今回の大地震から、一体、日本人は何を学ぶべきなのだろうか?
神保 僕は地震発生直後に被災地に取材に入り、まずは津波の威力と被害の甚大さを知り、茫然自失となりました。しかし次第に、物的な被害と人的な被害のバランスに、地域差があることに気づきました。つまり、建物はものすごく壊れていても、住民の多くが避難して助かった地域と、建物はそんなに壊れていないのに、多くの方が亡くなった地域がある。それが、今回の津波災害では今後の復興や防災のあり方を考える上での、ひとつのポイントになるのではないかと考えました。
そこで今回は、津波防災の専門家で、岩手県釜石市防災・危機管理アドバイザーも務めてらっしゃる群馬大学大学院の片田敏孝教授にお越しいただきました。まず、片田さんは今回の津波の被害状況をどう受け止めましたか?
片田 僕らが専門にしている「防災」は、研究の中でも実学分野だと思っています。一本の論文を書くよりもひとりの命を救おう──そう考え、釜石市に8年間通い、「犠牲者ゼロの町づくりを」と努力を重ねてきましたが、力が及びませんでした。こうした被害が出る前にやるべきことがあり、それを目指して頑張ってきたはずなのに、きちんと整備ができる前に被害に遭ってしまったのが、残念でなりません。
神保 ここまで大きい津波は、本当に想定外だったのでしょうか?
片田 例えば、映画で「隕石が落ちて巨大な津波が来る」というシーンが描かれることがありますが、そうしたことが起こる可能性は、もちろんゼロではありません。そういう意味では、完全な想定外ではなかった。しかし、実際の防災政策を展開する上では、無尽蔵に大きな災害を想定した行動を取ることはできません。
神保 すべてを想定していたら、費用が莫大なものになってしまいますね。
片田 そうです。僕らは防災における想定を、明確な歴史に残っている過去最大の「明治三陸津波」(1896年)と同程度のものと想定していました。
当時、三陸地域では、約2万2 000人が亡くなりました。当時の人口からすると被害は甚大で、例えば、宮古市の旧田老町では、村人が1859人亡くなり、生き残ったのはたったの36人。生存者は沖合に出ていた漁師で、陸にいた人は、ほぼ全員亡くなりました。また釜石市でも人口約6500人のうち、約4000人が亡くなっています。僕らはこの地震を想定して防災を行ってきましたが、今回の地震はその想定をはるかに超えてしまいました。
現在、多くの人が「この想定を見直そう」という議論をしていますが、僕は反対です。例えば、明治三陸津波の規模を想定して対策を行っていた田老地区は、10メートルの防波堤を二重に造り、釜石市には建設費用1200億円、30年をかけてギネスブックにも載る湾口防波堤を造った。これを「対策が甘い」というならば、日本の海岸をすべてコンクリートで固めなければならない。そんな財政投資は不可能です。
神保 それでは、津波対策の問題点はどこにあったのでしょう?
片田 大きな問題点は、「想定」にとらわれすぎたことだと思います。つまり、地域住民が「大規模な災害を想定した湾口防波堤ができたから、津波が来ても大丈夫」と考えてしまう状況があった。安全性を高めようとさまざまな対策を行った結果、災害のイメージを固定化してしまったんです。過保護な親の下に、脆弱な子どもが育つことと同じ構造の問題だと思います。
神保 田老地区で被災された住民の方々にお話を伺ったところ、実際に多くの方が「防波堤があるから大丈夫だろう」と考えて、避難をしていなかったことがわかりました。また、町役場の方からは「防災訓練を開催しても、参加率は非常に低かった」という声も聞かれました。
片田 あれだけ高い防波堤を見ると、波が越えてくることなどあり得ないと思うでしょう。
宮台 社会システム理論の表現だと「(いわゆる人為的に設計された)〈システム〉に依存しすぎた分、生活世界が脆弱になり、そのせいで、〈システム〉がパンクしたときに、生活世界が破滅した」となります。
神保 自然災害に際して「〈システム〉に依存してしまう」ことの解決策を考える上でヒントになるのが、釜石市鵜住居町にある小学校・中学校の例だと思います。あそこで何があったのかを、片田先生からご説明ください。
片田 鵜住居小学校と釜石東中学校は海からほど近く、鵜住居川の脇に並んで建っています。今回、津波は川を溯上してきて、堤防があふれ、まずより海に近い釜石東中学校が水に浸かりました。また、第二波、第三波はさらに高く、校舎すべてをのみ込みました。隣接する小学校では、最初は屋上に逃げていたのですが、釜石東中学校の子どもたちが校舎から逃げるのを見て、「中学生が逃げるのなら僕らも」と一緒になって逃げたのです。
神保 しかも、「まずは全員が校庭に集まる」という悠長なことをせずに、それぞれバラバラに逃げる──これが、津波から逃れる上での原則とのことですね。
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