震災報道で浮き彫りになったソーシャル時代のジャーナリズム
──激変するITビジネス&カルチャーの深層を抉る!
──災害は報道の形を問い直す。
3月11日に発生した東日本大震災は、私たちの生活をガラリと変えてしまった。この影響は一時的なものでなく、社会のあり方を問い直す機になるはずだ。そこでは、メディアもまた例外ではない。今回は、ソーシャルメディア時代のジャーナリズムを考える。
3月に発生した東日本大震災に際して、ワイドショーの震災報道はあまりにも画一的だ。被災地は広範囲にわたり、孤立した避難所もあちこちにまだ多く存在している。そうした状況は、現地に入っているボランティア団体などに取材すればすぐにわかるはずだが、多くのマスコミは気仙沼や陸前高田など、津波の被害が甚大で「絵」になりやすい「有名被災地」に取材陣を集中させてしまい、見た目の被害がはっきりしない茨城県や千葉県などは、ほとんど放置されてしまっている。
そして被災地での報道も、実に扇情的だ。例えば27日の朝には、日本テレビ系の『The サンデーNEXT』で、岩手県大船渡市立大船渡中学校の卒業式が報じられた。死者・行方不明者が400人を超える同市で、大船渡中の生徒・教職員たちは全員が無事だったという。そして106人の卒業生に卒業証書が手渡された。卒業式が終わり、卒業生たちはその足で学校内の体育館の避難所へ。そして全員で「ふるさと」などを被災者たちのために合唱した。大きな打撃を受けた街を思い、みな涙を流す光景が撮影され、放送される。
これはもちろん胸を打たれる光景であり、それに対して何も言うべき言葉はない。しかしこの映像がテレビで流れたことには、若干の違和感も私は感じた。どんな違和感かといえば、そこにテレビ局側の「押しつけがましさ」のような演出を感じたという点だ。大げさなナレーション、涙を流している人たちへのカメラのクローズアップ、感情をかき立てようとする字幕。
もしこの映像が、そこに偶然居合わせたボランティアや被災者、あるいは大船渡中の生徒、教師、保護者といった人たちが撮影し、YouTubeに流したものだったら、きっと私が受けた感覚はかなり異なるものだったのではないかと思う。実際、震災後に多くの情報を収集する中で感銘を受けたのは、被災した方々が撮影したYouTubeや本人の言葉によるツイッターであり、現地に入ったボランティアや看護師、医師、自衛隊員たちのブログやツイッターだった。
ではこうした人たちの発信と、マスコミとでは、何が異なるのだろうか?
ここで最も重要な視点は、「当事者/傍観者」というポイントである。これは、マスメディアが傍観者的に取材し、当事者意識が欠如しているというような単純な批判だけでない。実は今のメディア空間を取り巻いている重大な内在的問題が、震災をきっかけに噴出してきたということなのだ。
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