尖閣ビデオとウィキリークスが突きつけた メディアの真価への問い
#IT #ジャーナリズム #佐々木俊尚 #プレミアサイゾー
──「sengoku38」を名乗る人物によってユーチューブに動画がアップされ、一夜にして日本中が大騒ぎになった「尖閣ビデオ」問題。結局、漏洩を行った海上保安官は逮捕見送りとなったが、この事件が最も深い爪痕を残したのは、ジャーナリズムの領域だった!?
まっている。だが一度動き出した潮流は止
められない。人の口に戸は立てられず、と
はこのことか?
「尖閣ビデオ」の漏洩問題はメディアとネットの関係を考える上で、さまざまな問題を提起している。ネットの論壇では「そもそもあのビデオを国家機密とするのには問題があったのではないか」「最初から公開しなかった政府が悪い」「国民の知る権利に沿っていえば、海保職員を責めるべきではない」といった意見が多い。しかしマスメディアのとらえ方はどちらかというと、ビデオを漏洩させた海上保安官に批判的で、例えば毎日新聞は社説で「統治能力の欠如を憂う」「責任の所在を明らかにしなければならない」とぶち上げている。また朝日新聞も「これまでの捜査で驚かされたのは海上保安庁の情報管理のお粗末さだ」「データを扱う体制と意識の見直しはもちろん、管理業務にかかわる者の責任も厳しく問われよう」と非難している。
このような「統治能力欠如論」は、佐藤優氏が講談社のウェブサイト「現代ビジネス」に寄稿した「尖閣ビデオ問題『力の省庁』職員による『世直しゲーム』を英雄視する危険」という記事にも共通している。佐藤氏は「武器をもつ『力の省庁』の職員には、特に強い秩序意識が求められる」「保安官の行為は、官僚の服務規律の基本中の基本に反しており、厳しく弾呵されるべきだ」と、保安官への同情は危険であると指摘した。戦前の五・一五事件で犯人の青年将校たちへの同情論がわき上がり、この結果、「クーデターを起こしても世論に支持されればたいしたことにはならない」という考えが生まれて二・二六事件へとつながったという歴史の教訓を持ち出している。
この佐藤氏の指摘はとても説得力がある──ただし、その立ち位置が「統治する側」であるという担保付きで。彼がこのような論考を展開するのは、外務省の主任分析官という徹底的な政府のインサイダーだったからにほかならない。統治する側から見れば、このようなガバナンスの崩壊を見過ごしていればいずれは官僚組織そのものを変質させ、官僚たちの暴走を招きかねないというのは、もっともな意見である。
だがメディアは、統治側のインサイダーではない。基本的な立ち位置は、アウトサイダーである。いや、もう少し正確に言うならば、理想論で語ればこういうことだ。
──権力は内部に情報を持っていて、その情報を公開するかどうかを内部の論理で判断している。しかしその判断の論拠は内部の論理であって、必ずしも正当性を持つとは限らない。であるとすれば、その情報を外部に引き出し、国民の前に提示することによって、情報の非公開が本当に正しかったかどうかという判断の是非を国民に問う。
だから常にメディアは権力内部の情報を暴露する方向へと向かうし、そういう情報暴露がメディアのDNAにもなっている。
もちろん、すべての情報を公開する引力を持っているわけではない。クリティカルな個人情報や名誉毀損に当たるような誹謗中傷情報についてはメディアであっても「非公開」の判断をするのは当然だろう。
だとすれば、今回の尖閣の件はどうだろう。これは個人情報でなければ、個人の名誉毀損に当たるような情報でもない。もしこのビデオをまっとうなメディアが手に入れれば、公開する方向に行くのは当然の話である。実際、ユーチューブでビデオが流れてからは、テレビも新聞もビデオの中身を映像や写真でごく普通に紹介している。
それなら、なぜ今回の事件で毎日や朝日は、統治側に立つかのように「責任の所在を明らかにしなければならない」「情報管理がお粗末だ」と非難したのだろうか。自分たちが日ごろ行っている取材活動の中で、守秘義務を持つ政府当局者から手に入れた情報についても「管理がお粗末だ」と非難の刃を向けるのだろうか? あるいはマスメディアを経由した情報は「国民の知る権利」だが、マスメディア経由でない内部告発情報は「統治能力の欠如」なのだろうか?
もしそう考えているとすれば、ネットの登場により変動しつつある情報流通について、あまりにもお粗末な認識しか持っていないと言わざるを得ない。
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