巨星・小室直樹が残した民主主義への理解と伝搬【前編】
#宮台真司 #神保哲生 #プレミアサイゾー
──希代の学者、小室直樹がこの世を去った。その斬新な思考や創造性から、時に奇人とも評されたが、彼がアカデミズムの世界に残した功績は、計り知れない。社会学、経済学、宗教学、法学、哲学など、あらゆる学問を用いた彼の論理は天才の名にふさわしいものだった。旧ソ連の崩壊、ロッキード事件における検察批判と田中角栄の擁護、そして、真の意味での民主主義への理解など、評論家、学者という肩書にとどまらない小室氏の足跡を、愛弟子である橋爪大三郎氏と宮台真司氏が、回想と共に振り返る──。
【今月のゲスト】
橋爪大三郎[東京工業大学教授/社会学者]
神保 去る9月4日、宮台さんが師と仰ぐ、社会学者の小室直樹さんがお亡くなりになりました。今の日本と世界の状況を見るにつけ、小室先生が残したこれまでの足跡を振り返ることに大きな意味があると考え、今回は小室先生の追悼特番を企画しました。
宮台 昨今話題の大阪地検特捜部の不祥事や、尖閣諸島をめぐる紛争。これらをどう考え、解決するべきか。小室直樹先生は、30年以上前に完璧な答案を書いておられた。例えば田中角栄裁判。先生のテレビ番組における奇行ばかり話題になりましたが、先生は3点を問題にされた。第1に、検察が元ロッキード社副会長アーチボルト・コーチャンの嘱託尋問調書を証拠申請し、裁判所が採用した件。嘱託尋問調書は免責特権を与えた上での供述で、それに相当する制度が日本にない以上、調書の証拠能力は定かでないこと。第2に、免責特権を与えたコーチャンに対する反対尋問権を弁護側が行使できないこと。こんなものを証拠請求する特捜検察は近代裁判がわかっていないとして、「検事をぶっ殺せ」というテレビ発言になりました。第3に、これらすべてを頬被りしても「法を守る市民倫理の枠内にいたのでは政治共同体が危機に陥る場合、たとえ法を破っても市民を守るべく政治共同体を守れ」というのがマックス・ウェーバーの言う政治倫理だとして、指揮権発動による放免を主張された。
第1と第2は大阪地検問題に関連する。つまり特捜検察がいかに近代法を支えるエートス(行為態度)を理解していないかを示します。第3は近代外交を支えるエートスの問題です。1978年当時副主席だった小平は(日中外交について)「主権問題を棚上げし、共同開発しよう」と発言。小平の指示は絶対で、以降日中は「[1]主権棚上げ、[2]共同開発、[3]日本側実効支配」でやってきた。「主権棚上げ&日本側実効支配」とは日本が「拿捕&強制送還」図式を採ること。2004年12月に中国民間人が尖閣に上陸した際も、小泉首相が反復した。首相が指揮する法務大臣による指揮権発動があったのです。今回も指揮権発動が当然。外交は多くの場合、国内法を超えるからです。これを「民法でいう事情変更の原則が憲法と外交には利かない」という。佐藤優氏が書いておられますが、特捜検察がでっちあげた背任容疑裁判で、外務省条約局長と内閣法制局長官の間で解釈権をめぐる闘争があった背景も、それです。なぜ事情変更できないか。相手国にすれば日本に政権交代があろうが法変更があろうが、「日本が日本でなくなったわけじゃない以上」外交の約束は簡単には変更できないのです。
つまり、近代法とは何か、近代外交とは何かを、閣僚たちや役人たちが知らないのです。そのことを20年以上前に小室先生が指摘しておられた。そのときに我々がメッセージを受け止めることができていたら、今日の特捜検察の不祥事も外交の不祥事もあり得なかったはずです。
神保 今回のゲストは小室先生の愛弟子で、東京工業大学の橋爪大三郎教授です。小室先生について、今の宮台さんの話に付け加えたいことはありますか?
橋爪 今週、ちょうどノーベル賞の発表があって、日本人の受賞に国中が騒いでいる。「優れた知性がどこにいるのか」を、外国から教えてもらって喜んでいるようで残念です。ノーベル賞に「社会科学賞」があったら、小室先生は4つや5つはもらってもいいくらい、国際的にレベルの高い仕事をしています。素晴らしい仕事をしている人が目の前にいるのに、日本人は理解しようとしない。これは、小室先生にとって不幸である以上に、なにより日本にとって不幸なことであろう。小室先生が亡くなられた今、それを痛切に感じています。
神保 これまで小室先生のことをご存じなかった方は、この番組をきっかけに、少しでもその功績を知っていただけたらと思います。さて、今日は社会学の専門家2人のお話なので、少々難解な内容になるかもしれません。そこで、話がわかりやすくなるキーワードを挙げてもらっています。まず橋爪さんは 「システム」と「ディシプリン」の2つです。
橋爪 「システム」は、小室先生の仕事を考える上で、最初に浮かんできた言葉です。簡単にいうと「たくさんの要因が複雑に絡み合って、相互作用している状態」のこと。これが社会の基本です。つまり、社会は、単純に読み解けるものではないんです。小室先生はこの「システム」をベースに仕事をされました。これは、なんの反対かといえば、マルクス主義です。マルクス主義は突きつめれば、「階級闘争」「プロレタリアと資本家」で社会のすべてがわかるというのですから、小室先生の考え方は、これに反対する側面があった。小室先生は、すべての要因を考慮しなければ現実はとらえられない、と主張したのです。
一方、「ディシプリン」は、システムがとらえどころがないときに、ある規律に従って考え方を単純化することです。例えば経済学だったらお金だけ、法律学だったら法律だけ、というように、要因を限定してシンプルなモデルを作る。そうすると、良い結論が出てくる場合があります。
普通の学者はこれで満足してしまい、誰かが理論の不備を指摘すると「現実は複雑だから」とお茶を濁すのですが、小室先生はそうではなかった。ある学問で追いかけられない現象があれば、別の学問を手にして問題に立ち向かう。法律、宗教、経済、統計学、心理学、数学……など、とにかくこれまで人間が考え出したツールをなんでも身につけて、とことん問題を追い詰める。「ディシプリン」を信頼しているのですが、その限界もわかっていて、境界横断をしていくのです。これは普通の学者にしてみれば「縄張り荒らし」「道場破り」にほかならない。でも、これほど正しい学問のやり方はない。境界横断が引き金になり、小室先生は日本でさまざまな問題を起こしましたが、それをトラブルにしてしまった日本が悪い、学者が悪いと、私は考えます。
神保 一方、宮台さんが挙げたキーワードは、「エートスとアノミー」「合理と非合理」「人文社会学における立ち位置」です。
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