「単純所持」議論を任せてはいけない人たちがいる
#児童ポルノ #日本ユニセフ
当初、橋本氏は「児童ポルノ法」の改定論議の中で、冤罪の危惧などの課題があることには、気づいていなかった。ところが、これまでの濃厚な人生経験ゆえの直感なのか「その後、気になって」調べる中で、さまざまな論点があることに気づいたという。橋本氏は規制に反対する立場の意見も理解した上で、単純所持の禁止がなくては、児童ポルノ法の本来の目的である児童の権利を保護する目的は全うされないと、考えている。
「ネットなどで(冤罪の危惧など)さまざまな意見があることを知りました。意図的に送りつけて、冤罪を発生させた事例があることも知っています。その上で”冤罪が起きるから、禁止しないほうがいい”ではなく、守られるべき法益の重さだとか、冤罪がまったく避けられないのかを、もっと議論すべきだと思います。冤罪は、どんな法でも創り出される可能性はあるのだから”冤罪の可能性があるから規制をしない”というのは一般論して成り立ちません。また、冤罪の可能性があるから単純所持の禁止をしないほうがよい、というのもおかしい。私は、単純所持の禁止は被害者の人権を保護するという目的で効果のあることだと思います。だから、冤罪の可能性だけで人権侵害に晒されている子どもを救済する可能性を否定してしまうのは、いかがなことかと思っています」
「児童ポルノ」の単純所持禁止に異議を唱える人は、ごく僅かな小児性愛者を除いていない。問題となっているのは禁止対象になる「児童ポルノ」という概念の曖昧さだ。この語感の曖昧さゆえに、「児童ポルノ」ではなく「CAM」(Child Abuse Material=児童虐待製造物)という言葉の置き換えも提唱されている。明確な定義で「児童虐待製造物」の所持を禁止するのであれば、反対する人は、まずいないだろう。
「18歳という年齢の定義は、婚姻が16歳で許されている中で整合性が問題になると思います。それに、(「児童ポルノ」にあたるのは)被写体がどう写されている場合か、定義し直す必要があると思います。また、単純所持を禁止することに実効性があるとしても、そこから生まれる冤罪の危険性や、権力の増大といった不利益。それらも、当然議論していかなければならないでしょう」
橋本氏の議論すべきポイントは、規制に反対を唱える人々のそれと変わらない。橋本氏が国民運動に名を連ねた理由は、規制を進める運動をしている人たちには「そうした思慮が、まったくない」と考えたからだ。
「母が理事だった頃は、(ユニセフ協会は)全国樺太連盟のビルに入っていて貧しい世帯でやってた。それが、ああしたビルを建てて、私の兄も”オフクロがやっていた時とは違う団体になった”と話していた」
ユニセフ協会の職員も多くの人は本来の業務に関しては真面目に、使命感を持ってやっている。それは、昔も今も変わりはない。しかし、組織が巨大になった今、さまざまな問題や批判を抱えているのは確かだ。本論とも外れるので詳細は省くが、橋本氏は現在のユニセフ協会そのものの問題点してくれた。もちろん、無謬の組織なんて決してあり得ない。組織を維持し発展させる中で、次々とトラブルが発生し、批判が巻き起こるのは当然だ。そうした時に、きちんと問題解決のために議論したり、批判に対応できることは、公共性を持った組織であれば、当然の義務と言える。ところが、なぜか「児童ポルノ」をめぐって、巻き起こった批判に対するユニセフ協会の対応は、非常に官僚的で思慮に欠けているのではないかと、筆者は感じている。
そうした中で、橋本氏は国民運動に参加した中で感じた違和感を隠そうとはしない。
「報告会の時に、都条例に関わっている東京都PTA協議会(註:会長の新谷珠江氏)の人も発言していましたが、とてもついてはいけないと思った。一言でいえば、価値観の多様性がまったくない。それで、子どもを守る金科玉条を言っている。でも、被害救済については何もやっていないのではないでしょうか。(財)インターネット協会も、話していることはおかしくはないけど、要は警察庁の守備範囲を広げたいと思ってやっている。それは、子どもの人権を守る問題とは相当違います」
そんな状況だからこそ、あえて参加しなければならないと、橋本氏は考えた。
「国民運動に関わっている人たちは、”児童ポルノの実体的な被害者がいる”という、多くの国民が問題意識を感じる点を突破口に、どんどん先走っていく危険性があるタイプだと見ています。それも、故意か否かに関係なくです。だから”あの人たちとはやっていけない”と、突き放すべきではない」
橋本氏は、今の日本の状況に大正デモクラシーの反動で言論が抑圧されていった1930年代の怪しげな雰囲気と重なる部分を見ている。そうした時代状況の中で、誰もが納得し賛同する問題は当初の理念を超えて、あらぬ方向へと進んでいくことになりかねない。「児童ポルノ法」も単純所持に止まらない方向へと発展していくことになる。突き放したり批判するのではなく、バランスを崩したり、一線を越えてしまわないように、関わっておくことに意味はあると橋本氏は考えているのだ。このような意識で参加している人は、おそらくは、ほかにいない。
「日本の民主主義は、批判一辺倒ではない、問題解決を目的としたバランスある議論ができるかどうかにかかっている。本来の民主主義とは、有権者が代表者を選ぶ部分と共に、多くの人の価値観を認めていくことにある。そこに制限を加えられるのは、よほどの合理性があるということです。ところが、規制に賛成しようとする人たちが、そういった意識を持っているかといえば、持っていないと思うんです」
ここが「非実在青少年」問題とは違うところだ。区分の幅が問題となる「非実在青少年」問題に対して「児童ポルノ」の問題は、もっと広くて影響の大きい問題。それゆえ、議論の余地のあるなしではなく、もっと議論が深められて当たり前だ。にも関わらず、議論を深めていこうという意識は薄い。国民運動の際に同席した東京都PTA協議会や(財)インターネット協会の人には「こいつは、仲間じゃない」と思われたらしく、名刺交換もなく終わった。
(【下】につづく/取材・文=昼間たかし)
難しい。
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