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CYZO×PLANETS 月刊カルチャー時評

スタジオジブリはピクサーを目指す? ようやく道筋のついた”宮﨑駿の継承”の方法

「CYZO×PLANETS 月刊カルチャー時評」とは?
本誌連載陣でもある批評家・編集者の宇野常寛氏が主宰するインディーズ・カルチャーマガジン「PLANETS」とサイゾーがタッグを組み、宇野氏プロデュースのもと、雑誌業界で地位低下中のカルチャー批評の復権を図る連載企画。新進気鋭の書き手たちによる、ここでしかできないカルチャー時評をお届けします。見るべき作品も読むべき批評も、ここにある!

1010_arietty.jpg『借りぐらしのアリエッティ』公式
HPより。

今月の1本
『借りぐらしのアリエッティ』

新城カズマ[小説家]×黒瀬陽平[美術家/批評家]×宇野常寛[批評家]


『崖の上のポニョ』以来2年ぶりとなる、スタジオジブリの長編劇場アニメ『借りぐらしのアリエッティ』。ジブリの若手アニメーター・米林宏昌が監督を務め、宮﨑駿は脚本のみ、という点も話題になった本作は、ジブリにとってターニングポイントとなる作品だった──。公開から2カ月、本作の意義と試みを考察する。

新城 『借りぐらしのアリエッティ』(以下『アリエッティ』)の素朴な感想というか驚いた点は、『アリエッティ』は『となりのトトロ』(以下『トトロ』)よりも尺が長いということです。88分の『トトロ』は今でもすべて思い出せるけれど、94分の『アリエッティ』のほうは、そこまでではない。私ができるギリギリの発言は、「『トトロ』はやっぱり名作だったんだ」と(笑)。

宇野 どこに基準を置くかで『アリエッティ』の評価はまったく違ってきます。そりゃあ、宮﨑作品、たとえば直前の『崖の上のポニョ』(以下『ポニョ』)に比べれば強度がまったく違う。けれど、スタジオジブリってこの10年近く、ずっと「宮﨑駿もいつか死ぬ」という前提のもとに若手を育てようとしてはきたと思うんですよね。それが宮﨑吾朗の『ゲド戦記』や森田宏幸の『猫の恩返し』なんだと思うんですが、どちらも漠然とした宮﨑駿の社会的なイメージを踏襲しようとして失敗している。これらと比べたとき、『アリエッティ』はプロジェクトとして少なくとも失敗していない。

黒瀬 僕は面白く観れました。演出の方法論が統一されていない、宮﨑駿のイデオロギーでパッケージングされていないながらも、ジブリ的モチーフ、表現は部分的に引き受けていて、それがモジュールの組み合わせのように見えた点が新しかった。

宇野 つまり、宮﨑アニメの全体性を確保していたイデオロギーではなくて、細部、具体的には各要素をバラバラにして取り入れることですね。

新城 『アリエッティ』は、「病弱なハウルがトトロの屋敷にやってくるとそこには小さなナウシカがいて」というふうに、すべて精密に当てはめられてしまう。その意味では私もモジュール性は感じました。

宇野 たとえば「世界名作劇場」的な、日本人目線のやや入ったファンタジー化された西洋や舞台となる古い屋敷のイメージ、こうした各要素を宮﨑駿イデオロギーからいったん切り離して、個別に咀嚼して飲みこむというゲームをやっている。

黒瀬 宮﨑駿がいつも仕掛けるプロットの破綻、矛盾がない、そしてそれを最大限に盛り上げる演出がない。希望的観測込みですが、個人的にはこれを、新しい世代によって宮﨑駿を相対化し、ジブリの中から新しいゲームが始まる予兆だととらえたい。

宇野 そのせいで、良くも悪くも口当たりがいい代わりにインパクトは弱い作品になったとは思います。しかしこれは過去の非宮﨑ジブリ作品の失敗を考えると、ほとんど初めて宮﨑駿へのアプローチ方法を発見したといえる。

黒瀬 監督の米林宏昌さんは、たとえば宮﨑吾朗監督と比べれば、宮﨑イズムの教育が徹底されていないからかもしれません。今回は脚本のみ担当ということで、どこまでが宮﨑さんの手によるのかはっきりしませんが、自分が好きな西洋のファンタジーと日本の民俗的で土俗的なものを無理やり直結させようとするのは、宮﨑さんだからできるんだということは『アリエッティ』からもうかがえます。

宇野 宮﨑さんをイデオロギッシュに叩く人がいますが、彼の「無意識の暴力性」のようなものが消えて内省的に賢くなった瞬間に彼が作り上げてきた世界は力を失うはずです。宮﨑作品では、肥大したエゴで本来つながらないはずのものをつなげ、そこがいびつな魅力を生んで、ひいてはその構造が絵の力を支えている。『ポニョ』のあのあざとい評論家ホイホイ的な各要素を、強烈なイデオロギー性で強引にパッケージングした凄みですよね。過去の若手ジブリ作品は、この構造を理解しないまま、中途半端にパッケージングされた表面的な宮﨑のイメージをある程度継承しようとして失敗している。対して『アリエッティ』が宮﨑作品や他のジブリ作品と違うのは、自覚的にか結果的にかわかりませんが、その大きな構造を後退させて各要素をモジュール的に継承しているからです。

黒瀬 その結果なのか、食べるシーンに象徴的な宮﨑演出における美学的なこだわり、今までジブリ作画と呼ばれていたものも総じて特徴が後退してプレーンな感じになっていましたね。

新城 走り回るシーンや飛ぶシーンも従来ほどではないですし。しかしそれならいっそ、短編映画複数本にバラしてみせたほうがわかりやすい。実際、興行成績を維持しつつ実験をするというのは、ほとんど不可能に近い。だとすれば、長編アニメ映画を2年に1本発表する興行体制そのものの限界と考えるべきではないんでしょうか。

宇野 ビジネスモデルも含めて、ジブリは体制自体を見直す時期に来ていると思うんですね。その試行錯誤のひとつとして宮﨑駿をなんらかの形で継承しようとするときに、一度バラさなければいけなかったということかと。それも短編映画では意味がなく、ジブリが長編映画を作る体力を維持したまま宮﨑駿から若手監督に引き継いでいくという使命を果たすためには『アリエッティ』は必要だったんでしょうね。

最終更新:2010/09/21 10:30
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