現代経営論のカリスマもビックリ!? 理論で見る”最強ヤクザ”山口組、強さの秘密
──「ヤクザの2人に1人は山口組」といわれるほど、全国的に強い勢力を誇っている山口組。その強さの秘密には、単なる暴力以上の、組織運営上のすぐれたシステムの存在があるのではないか? 名著『マネジメント』などで知られる経営学者ドラッカーの理論を山口組に当てはめて徹底考察してみると──。
せたといっても過言ではない田岡一雄
三代目組長の自伝
『山口組三代目 田岡一雄自伝』
2008年、暴力団対策法(暴力団員による不当な行為の防止等に関する法律、以下「暴対法」)の一部改正によって、傘下組員の違法行為に対する組長の使用者責任がさらに拡大されるなどし、また今年に入っても、福岡県警が県内のコンビニエンスストアに対し、ヤクザを扱う雑誌の販売中止を要請するなど(当特集の「ヤクザとメディア」記事参照)、昨今、暴力団に対する警察の締め付けと社会の風当たりは厳しくなるばかりだ。
警察庁の統計によれば、1963年に18万4091人を数えた暴力団構成員数も、64年、69年、75年の三次にわたる暴力団の全国一斉取り締まり「頂上作戦」や、92年の暴対法の施行などを経て、95年にはピーク時の半数以下の7万9300人にまで減少。その後微増傾向にあったが、04年には再び減少に転じ、09年には8万900人(準構成員含む)まで減っている。
そんな、ヤクザの側から見れば極めて厳しい状況にあって、全ヤクザの実に45%に当たる3万6400人、つまり「ヤクザの2人に1人」を擁するのが、日本最大のヤクザ組織、六代目山口組だ。第二勢力の住吉会(1万2800人、構成員総数の15・8%)や稲川会(9400人、同11・6%)を数の面で大きく引き離し、完全に”独り勝ち”といえる状況にある。
それでは、なぜ山口組だけが、60年代半ばから現在まで吹き続ける逆風を乗り切り、トップの座を保ち続けられたのか? その理由として、多くの識者が異口同音に挙げるのが、「圧倒的な組織力」だ。山口組、さらには近代ヤクザ組織全体を語る上で、「山口組の組織力」は、決して外せないキーワードなのである。
ただ、山口組の組織運営について考察するためには、まず、山口組の歴史を押さえておく必要がある。そこで、各識者への取材をもとに、その歴史と現状をかいつまんでまとめてみよう(コラムの年表参照)。
山口組は、15年、初代山口春吉組長のもと、神戸の沖仲仕(港湾荷役労働者)を統括・供給する集団として創設され、次第にヤクザ組織へと発展していった。地方のいちヤクザ組織にすぎなかった山口組が大躍進を遂げたのは、終戦直後の46年に三代目を襲名した田岡一雄組長の時。『山口組概論──最強組織はなぜ成立したのか』(ちくま新書)の著者で、近代ヤクザ研究の第一人者であるフリージャーナリストの猪野健治氏は、次のように解説する。
「戦後復興と共に、三代目山口組は、神戸の港湾荷役業を独占すると同時に、美空ひばりや春日八郎ら多くのスターの興行を手がけるなど、全国を市場とする興行ビジネスで大成功を収め、全国進出への足がかりを得ました。田岡三代目の最も優れた点は、従来のヤクザのような、瞬間的な金儲けの発想がまったくなく、組員に正業を持たせ、一般企業と同様に、永続可能な経営を基本としたことです」
さらに猪野氏は「田岡三代目の打ち出した運営方針の中で特筆すべきは、事業集団と戦闘部隊を明確に分離したことだ」と指摘する。岡精義組長を責任者とする事業集団には、直轄の若い衆を持つことを禁じて港湾荷役などの事業に専念させ、他方、地道行雄若頭らの率いる戦闘部隊には、事業集団の稼ぎ出した資金を元手に勢力を拡大させる。抗争により山口組の”ブランド力”が高まることで、事業集団もさらに商売がやりやすくなる。”車の両輪”にも例えられる好循環をつくり上げたわけだ。
以降、山口組は、その圧倒的な資金力と戦闘力をもって、拡張路線を突き進み、五層構造からなる巨大なピラミッド型組織を構築する。法社会学が専門の桐蔭横浜大学・河合幹雄教授はこう語る。
「一般的なヤクザ観といえば、『ヤクザは威圧するだけで、実際にケンカが強いわけではない』というものですが、少なくとも山口組は例外で、本当に途方もなく強かった。山口組は、それまで無計画に行われていたヤクザの抗争に、本部主導による組織的な戦術を持ち込みました。その一例が、抗争の際、必ず違う組の組員を3人で組ませて行動させたこと。これなら、たとえ警察や抗争相手がそのうちの1人を捕えても、本部しか作戦全体を把握しておらず、しかも同行の組員の素性すら知らないので、何ひとつ有益な情報を聞き出せない。このように、上意下達を徹底し、システマティックに勝つパターンを確立したからこそ、どの地域でも連戦連勝できたと考えられます」
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