「批評のジェノサイズ」著者が語る、サブカルチャーの悪習と御用ライターの罪と罰(前編)
#サブカルチャー #宇野常寛 #批評 #更科修一郎
月刊サイゾー連載時より、関係各所で自爆・誤爆を引き起こした名物連載「サブカルチャー最終審判」。宇野常寛氏と更科修一郎氏が、アニメ、映画、ドラマ、マンガ、小説……の批評・評論の慣れ合いや御用ぶりをメッタ斬る”お口の悪さ”が際立った連載だったが、その内容は一読の価値アリとも言われる「ごもっとも」なもので、一部からは高い評価を受けた。
その連載が書籍化して1カ月、著者である宇野氏にインタビューを敢行し、今だから話せる連載の経緯や”自爆・誤爆ぶり”、さらにはサブカルチャー各ジャンルの話題になったコンテンツについて話を聞いた――。
──(本誌読者は説明不要ですが)まずは日刊サイゾー読者のために『批評のジェノサイズ』の概要を教えてください。
宇野 近年のサブカルチャー、それぞれのジャンルにどんな流れができていたのかということを分かりやすく解説している内容になっていると思います。それはもちろん、業界地図の動きでありながら、その背景となっている思想の動きでもあります。
例えば、本書の中で『少年サンデー』(小学館)の部数低下についての話が出てくるのですが、それは単純に人気がないから売れていないということだけではなく、80年代の男性オタクの象徴的なメディアであった『少年サンデー』のメンタリティが、現在の若いオタクにまったく共有されなくなってきている、ということを示しています。これは思想的な課題でもあり、象徴的に言うならば、大塚英志と東浩紀の思想的な対立でもあるんです。
このように、業界地図の変遷と思想地図の変遷はすごくシンクロしていて、それはサブカルチャーのあらゆるジャンルで起こっていることでもあるということを、更科修一郎さんとの対談を通じて解説したかったんです。
──どのような経緯で更科修一郎氏と対談をすることになったのですか?
宇野 これはもうあちこちで言っているんですが、更科さんはまさに僕の師匠のような人で、物書きとしても編集者としても一番頼りにしていた先輩だったんです。それで、「サイゾー」から時評の対談連載のお話をいただいたときに、相手をお願いできるのは更科さんしかいないだろうと。というのも、アニメが好きだからアニメだけ、純文学が好きだから純文学だけ、というようにそれぞれのジャンルに忠誠心を持って、そのファンダムに奉仕することに満足するような御用ライターみたいなやつは掃いて捨てるほどいるんですが、はっきり言って、僕は彼らに対して軽蔑以上のものを感じないわけです。そんな連中と違って、同世代でさまざまなサブカルチャージャンルに対して、アンテナを張っている人自体が更科さん以外にいなかったんです。
当時、更科さんは批評家としての活動を引退するつもりで、この対談を嫌がっていることも分かっていたんですが、最後に一緒に本を作りたいと僕が頼み込んで、無理やり引っ張ってきちゃったという感じですね。
──その過激な内容から、業界内外でいろいろと反発があったようですが……。
宇野 制作者に媚を売って、提灯記事を書いて仕事をもらっているような御用ライターたちをボロクソに批判したので、彼らは怒り狂って僕を逆恨みしているんですね。そんなことをするのが、僕よりも10年近く長いキャリアがある人だったりするんですよ。悲しくなりますよね。そんな連中には、ちゃんと仕事で勝負してくれ、とはっきり言いたい。彼らも生活があるでしょうから、御用ライターとして提灯記事を書いて糊口をしのぐのはどうぞ自由にやってくださいという感じですが、自分より若い世代が出てきたときにネットで嫌味を書いて溜飲を下げるようなことをするのはどうかと思いますよ。
──本書の中ではたびたび、そういった業界の”タコツボ化”や”御用ライター”を批判されていますね。
宇野 動きがなくなっていくんですよ。この種のユーザーはこういうものを欲しがっていると、その分かりきったところに欲しがっているものを与えるだけで、完全に予定調和なわけです。消費者との共犯関係にある以上、そこには強い力が生まれない。表現や文化のダイナミズムといったものは皆無なんです。
例えば、なくなっちゃった雑誌だけど『諸君!』(文藝春秋)の靖国神社問題特集なんて、読まなくてもどんな文脈になっているか分かるじゃないですか。それってすごくつまらないし、文化の貧しさ以外の何物でもない。タコツボの中でそれが通じる人間だけが集まって、「これが分かる俺たちは仲間だよね」と確認するためだけの党派的な装置であって、そこに知的な営みはまったくないと思うんです。せいぜい「俺は●●のことを心から愛している」みたいな決意表明だけを延々とブログに書き続けるだけで、具体的には何もしないブロガーみたいなファンを増やすだけですよ。
──更科氏は本書の中で、「批評家は文化的タコツボの住人に理論武装ツールを提供する」ことでしかないと、批評という行為に対してかなり絶望しているようですが。
宇野 8割は正しいと思いますよ。僕も現状認識としては、更科さんとそんなにブレはありません。ただ、状況をある程度マシにする方法はいくらでもあるし、それが実現できるかどうかはこれからにかかっている。僕は「PLANETS」(第二次惑星開発委員会)など自前のメディアもあるので、いろいろと打つ手があるんじゃないかと思って試してみようとしているところです。
──『批評のジェノサイズ』はどんな人に読んでもらいたいですか?
宇野 コンテンツをただ楽しむだけじゃなくて、その背景にあるものについても考えてみたいという人に、ぜひ手に取ってもらいたいですね。物語の中にある思想的な流れや文脈を併せて読むことによって、世の中の見方を別の角度から得られると思うんです。そういった面白さを感じてもらえればと思います。思想というか物語同士のぶつかり合い、優劣といったもので動いていく思想的な文脈というものが、コンテンツの世界では強いということを感じ取ってもらいたいですね。
(中編に続く/構成=橋富政彦)
●うの・つねひろ
1979年生まれ。批評家。企画ユニット「第二次惑星開発委員会」主宰。文学、サブカルチャー、コミュニケーション論など幅広く評論活動を行う。著書に『ゼロ年代の想像力』(早川書房)、批評誌「PLANETS」編集長。
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