進まぬ日本の医療IT化 阻むは医療関係者のウェブ嫌い
#IT #医療 #佐々木俊尚
現在、アメリカで導入が進んでいる医療のソーシャルメディア化。PHRと呼ばれるこのシステムは、医師・患者・患者の家族の3者それぞれに利益をもたらすものだが、日本ではまだ導入される気配もない。日本の医療界のIT化の現状は惨憺たるもので──。
PHR(Personal Health Record)という言葉をご存じだろうか? ITを使って医療をソーシャルメディア化していこうという試みがいまアメリカで進んでいる。さまざまな病院に保存されている電子カルテや処方箋、それに自分自身が自宅で計測した体脂肪率や血圧、万歩計などの数字をすべて統合してデータベース化し、これを患者や患者の家族も自由に閲覧して、自分自身の健康管理システムを作っていこうという考え方だ。
アメリカは、マイケル・ムーア監督が映画『シッコ』で描いて全世界に知れ渡った通り、健康保険未加入の国民が5000万人に達するなど、国全体の医療事情は非常に悪い。しかしミドルクラス以上を対象にした最先端医療サービスは日本よりもずっと充実していて、すでにこのPHRも実用的なサービスとして登場してきている。提供しているのはマイクロソフトとグーグルの2社だ。マイクロソフトがまず07年にHealth VaultというPHRサービスを提供し、翌2008年にグーグルがGoogle Healthで後を追った。
これらのサービスに加入すると、ユーザーは自分の身長や体重、既往症、日常服用している薬、アレルギーなどの情報を入力して管理できる。そしてもちろんこのPHRのデータベースは病院とも接続されていて、自分が診療を受けている病院から、カルテや処方箋の情報をインポートして自分のPHRデータにコピーすることもできるようになっている。これらの情報は、自分と自分の家族、そして医師の3者で共有することができる。また医療SNSなどと連携すれば、自分と同じ病気を持つ人たちとの間で悩みを打ち明け合ったり、よりよい診療方法の情報を共有したりできるようになる。
PHRが実現してくれば、日常の生活と病院での診療がシームレスにつながり、病気の早期発見が以前よりもずっと高い確度で可能になる。セカンドオピニオンやほかの医療機関への転院も容易になり、自分の健康を全体最適化できるようになる。医療の進化がPHRの方向へと向かうことは間違いなく、それは約束された未来だ。
しかし日本の現状では、PHRへの道のりはまだはるかに遠い。PHRどころか、ずっと以前の段階で足踏みしてしまっているというのが現状だ。
医療のオンライン化は、3段階に分けられる。
(1)EMR(Electronic Medical Record)
電子カルテのこと。単一の病院やクリニックの中で、患者個人についての診療情報や健康情報、処方箋などを電子的に記録することだ。
(2)EHR(Electronic Health Record)
EMRが「単一の病院・クリニックでの医療情報」だったのに対して、EHRでは電子カルテが複数の病院・クリニック間で共有される。つまりは病院と病院をネットワークで相互接続し、電子カルテをそれぞれの病院の医師たちが見られるようにするというシステムだ。
(3)PHR
EHRがさらに一歩進むと、蓄積された電子カルテを患者側が閲覧できるようになる。ここまで来て、ようやくPHRといえるものになる。日本の現状を言えば、ようやく大病院でEMRが整備されてきたというところだ。つまり、これまで手書きだったカルテをパソコンの画面に呼び出して入力するようになったという段階。しかし中小の病院やさらに小規模なクリニックまで含めると、実は電子カルテの普及率は驚くほど低い。調査会社のシード・プランニング社が今春行った調査によれば、病院での電子カルテの普及率は推定で17.8パーセント。クリニックに至っては、推定13パーセントという低さになっている。
病院の経営が悪化している中で、「電子カルテを導入しようとすると、コンサルからものすごい金額を提示されてしまう。これでは、経営基盤の弱い病院やクリニックは手を出せないのでは」という指摘もあるようだ。
こういう状況だから、日本ではEHRはまだ小規模な実証実験が行われているだけで、実サービスレベルにまでは進んでいない。もちろんPHRは、まだ影も形もない。
FAX利用で「便利!」 医療業界のIT化遅延状況
なぜこうした電子カルテの相互運用が日本では進まないのだろうか。
まず第1に、医療データ体系がきちんと標準化されていないということがある。たとえば薬品では、厚生労働省のコードやじほう社のコードなどが乱立している。レセプト(診療報酬明細)に記載する病名コードに関しても、世界的にはWHO(世界保健機関)のICD-10という国際統計分類があるが、日本のレセプトでは「レセプトコード」という独自の体系を使っている。「ICD-10準拠」とはされているが、微妙にコードが異なっている。
第2に、電子カルテシステムが乱立している問題。富士通やNEC、日立製作所などのITベンダー大手がそれぞれ独自に開発していて、その間に相互運用性はない。ちなみにこれらを相互接続させるため、経済産業省が支援して「Dolphin Project(ドルフィンプロジェクト)」という地域医療連携システムの実験が進められたことがあった。これはスタンドアローンの電子カルテを国際標準であるHL7(Health Level 7)というデータ形式に変換し、XMLでやりとりしようというものだ。システムとしてはかなり進化していて、07年現在ですでに30種類近くの電子カルテが接続可能となっているというが、このプロジェクトは熊本、宮崎の2地域での限定的な運用で、実証実験レベルにとどまっているのは残念だ。
第3に、医師や病院経営者からのITへの反発がある。これが実のところ、最大の原因かもしれない。先だってネット業界でも話題になった改正薬事法による薬のネット販売規制を見てもわかるとおり、厚労省をはじめとする医療・薬品業界にはインターネットへの不安が根強い。たとえば処方箋をウェブ経由で医師が薬局に送信できる「ウェブ処方箋」という新方式が検討されたことがあった。
寝たきりの患者を対象に、往診した医師がウェブ経由で薬局に処方箋を送り、薬局が患者宅に郵送するというシステムである。しかしこれも「対面しないで売るのはよくない」という結論になり、結局ウェブで処方箋が送られた後に、患者の家族が処方箋の実物を薬局に持って行かなければ受け取れない、というルールに変更された。これではウェブで送る意味はほとんどない。
似たようなものに「ファクス処方箋」というのもある。病院から医師が処方箋をファクスで薬局に送っておく。送信済みの現物処方箋は患者に渡され、患者はそれを薬局に持って行く。薬局に到着する頃には「もうお薬はできていますよ!」と即座に渡してもらえるというものだ。これは便利、と薬局業界ではかなり脚光を浴びているという。確かに以前よりは便利かもしれないが、この話を聞いて「いまさらファクスか……。しかもその後、結局足を運ばないといけないのか」と遠い目をしてしまうウェブ業界の人は少なくないだろう。医療現場でのIT化というのは、つまりはこの程度のレベルなのだ。
EMRに関しては、日本政府は03年頃からIT戦略の中心に据えてきた。同年発表されたe-Japan戦略Ⅱの「2003重点計画」では、先導的取り組みの7分野のひとつとして医療を指定し、その具体的施策のひとつとして電子カルテを取り上げている。しかし「笛吹けど踊らず」とは、まさにこの状況。日本でPHRのようなサービスが普及するようになるのは、おそらく何十年も先だろう。
(「サイゾー」10月号より)
ささき・としなお
1961年生まれ。毎日新聞、アスキーを経て、フリージャーナリストに。ネット技術やベンチャービジネスに精通。近著に『仕事するのにオフィスはいらない』(光文社)、『2011年新聞・テレビ消滅』(文藝春秋)ほか。
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