真実を隠蔽し続ける謝罪会見が生み出す”罪”
#スキャンダル
あるときは企業の不祥事にお偉方が土下座をし、またあるときは著名人の子どものスキャンダルに、当の親が泣いて謝る。政財界から芸能界まで不祥事・スキャンダルは尽きることなく、何か騒動があるごとに謝罪会見が開かれる。しかし、それらの中にはあまりにしらじらしいものが多く、あの謝罪を真に受けている人など存在するのだろうか。10年間以上も新聞に掲載された謝罪会見記事を収集し続け、それらをまとめた著書『マッド・アマノの「謝罪の品格」』(平凡社新書)を持つパロディストのマッド・アマノ氏はこう話す。
「謝罪会見はもう、パフォーマンスになって形骸化しているよね。最近は企業の危機管理もしっかりしているし、謝罪会見もあらかじめ決められた通りやっている。2007年に原発の臨界事故隠ぺいが発覚した東京電力の会見なんて、お辞儀のときに、前列と後列に座った幹部が、きれいにタイミング合わせてお辞儀したもん。ありゃ、かなり予行演習したんだろうね(笑)」
船場吉兆やミートホープなど、つたなさゆえに個性的な記者会見もあったが、基本的に通り一遍の文句を述べて頭を下げる会見など、どれも似たり寄ったり。そもそも、「世間の皆様をお騒がせして……」「多くの方々にご迷惑を……」などと、メディアを通じて不特定多数に向けて謝罪すること自体、パフォーマンス以外の何ものでもない。しかしそれでも謝罪会見を望む人がいるのが不思議である。
「それは、謝罪が日本の文化だから。何かあったらまず謝罪をするっていうコンセンサスが、日本社会では出来上がっている。まだ原因調査すらやってないのに『とりあえず謝れ』と思う人がいて、『とりあえず謝っとけ』と思う人がいる。海外じゃ絶対考えられないよ」
しかも、日本社会におけるこの「とりあえず謝罪」文化は、事件の真相解明の妨げにもなっていると同氏は指摘する。例えば、薬害エイズの原因を作ったとされるミドリ十字は、96年にHIV訴訟原告らに第2次和解案の受け入れを表明し、記者会見で土下座までしたが、その後の裁判では一転して無罪を主張している。これでは、何に対する土下座だったのかまったくわからない。
「謝罪会見というのは目くらましみたいなもの。とりあえず謝っておかないと、マスコミはいつまでも追ってくるから。朝青龍が06年に夏場所を休んでモンゴルに帰っているとき、サッカーをやって問題になったけど、あの報道の盛り上がりぶりなんて、『いつまで続くの?』ってほどだったでしょ。朝青龍本人としては、モンゴル政府と中田(英寿)に頼まれたから参加してあげただけなのに、なんで謝罪会見なんてしなきゃいかんのって思っただろうけどね」
また、朝青龍の件のように事件ともいえないようなことと、人命にかかわるような大事件を同じウェイトで報道し、同じように謝罪をさせようとするマスコミの姿勢にも問題があると同氏は指摘する。
「ジャーナリズムの仕事ってのは、謝罪会見を冷やかすことじゃなくて、事件の背後にある隠れた事実を公にすることでしょ。会見は、事件の背後にある利害関係や、さらに隠さなきゃいけない重大事件が裏にあるときに、とりあえずその場で謝る人にマズいことを全部押しつけて、トカゲの尻尾切りみたいにやることも多い。例えば、ミドリ十字の事件のときに安部英という医師がスケープゴートにされたけど、その裏には中曽根(康弘)や当時の厚生省と米国の製薬会社の癒着など、さまざまな利害関係が絡んでいたのは明らか。でも、民衆の目はミドリ十字と悪人顔の医師に向けられるわけ。これはマスコミの責任も大きいよ」
マスコミを含め、利害関係が複雑に交錯する中では、謝罪会見は真相をかえって靄に包んでしまう装置になってしまっているのかもしれない。
「すべてを合理的にやるのは日本人の文化じゃないし、それが日本の良いところでもある。でも謝罪は曖昧じゃ駄目。謝るべき事実があって、それを調査して事実を伝える。それから謝罪するからこそ意味がある。だから、突っ込みどころ満載の調査しかしてないような『とりあえず謝罪』会見なんて、やらなきゃいいんだよ」
まず情に訴えようとする謝罪会見をよしとせず、その背後にあるものを見ようとする人が増えれば、スキャンダル発生時の対応もいずれは変わってくるのかもしれない。とはいえ、振り返ってみれば各方面に「とりあえず謝罪」ばかりをしている気がする自分には、耳が痛い話です……。
(文=テルイコウスケ/「サイゾー」9月号より)
脱・謝罪文化!
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