「宮沢りえは彼女の”作品”だった」りえママの豪腕伝説
#本多圭の「芸能界・今昔・裏・レポート」 #宮沢りえ
芸能取材歴30年以上、タブー知らずのベテランジャーナリストが、縦横無尽に話題の芸能トピックの「裏側」を語り尽くす!
宮沢りえがハワイ在住の40代前半の日本人元プロサーファーのH氏の子どもを妊娠した。筆者としては、数年前からパリで暮らす母親の宮澤光子さんに今回の結婚を認めさせるための計画妊娠だったのではないかという疑問をつい抱いてしまう。というのも、りえの生き様は光子さん抜きでは語れない。いや、りえは、光子さんが作り上げた作品といっても過言ではないと思えるからだ。
りえは、11歳で芸能界デビュー。三井のリハウスのCMでの白鳥麗子役でブレークした。
「それまで光子さんは、りえを抱えて、保険の外交の仕事をしていた言われてますが、銀座のあまり有名ではないクラブのホステスもやっていたんです。その関係で知り合ったかどうかは定かではありませんが、六本木の高級寿司屋の旦那と深い関係だったんです。その店に幼いりえをよく連れていった。そこは、芸能界の幹部連が通う店。たちまち幹部たちの目に留まったんです」(ベテランのマネジャー)
りえがスカウトされ、デビュー時、所属した事務所は”芸能界のドン”と呼ばれた人物の息がかかった「E」というプロダクションだったが、ブレークするや、光子さんの判断で即独立してしまった。
「普通なら、他の芸能プロに潰されますよ。ところが、りえママは男勝り。彼女自身がマネジャーになって、りえの売出しを始めたんです。りえママの勢いに押されて、さすがに芸能界の実力者たちも沈黙せざるを得なかったですよ」(元芸能関係者)
光子さんは、敏腕ではなく、豪腕マネジャーとして恐れられた。プロデューサーとしても実力を発揮。まだ10代のりえを”ふんどしカレンダー”に起用したり、篠山紀信さんによる全裸写真集『サンタフェ』を発売した。
その一方で、知名度のある芸能人やスタッフに接近。芸能マスコミ的にも、りえの商品価値をアップさせるという才能にも長けていた。
1992年にりえは、エースコックのCMでビートたけしと共演した。今だから言えるが、海外で行われたCM撮影でこんな裏話があった。宿泊したホテルのたけしの部屋に、りえが深夜に訪ねてきた。「ママに言われてきた」と彼女は言ったそうだ。しかし、たけしは彼女を傷つけないように「いいから、早く帰って寝なさい」と帰したという。
その後、りえは当時、大関だった貴花田(現・貴乃花)と電撃婚約したが、2カ月足らずで婚約解消した。破局を決定的にした理由は、酒に酔った光子さんが、自宅に遊びに来た貴花田に、女将さんだった母親の憲子さんの悪口を言い、そのことで憲子さんともめたからだとささやかれた。
貴花田と別れ、傷心のりえの前に現れたのが、妻子持ちの中村勘三郎(当時・勘九郎)だった。2人は光子さん公認の仲だった。というのも、りえが京都で自殺未遂騒動を起こす前の夏に、りえと勘三郎と光子さんの3人で、筆者の親しいモデルが経営していた六本木のカウンタバーを訪れたりしている。
蛇足だが、その店はたまたまクーラーが壊れてしまったので、経営者がクーラーを叩いたところ、クーラーから水がこぼれて、その下にした光子さんにかかってしまうというアクシデントがあったというのだ。経営者は「隣を見たら、りえと勘九郎が笑いを堪えていたんです。でも、悪いのは私だから、りえママに謝ったんですよ。そしたら、吸っていたタバコをワイングラスに投げ捨て”これが私の答えよ”と捨てゼリフを残して帰って行ったわ」と言う。
それからしばらくして、りえが勘三郎との不倫のもつれから自殺未遂騒動を起こした。その後も、市川右近や市川海老蔵、中田英寿ら何人もの男性と噂になったが、光子さんの反対にあって別れたと言われている。
りえの半生は、ある意味、りえママに翻弄されてきた。それだけに、りえが完全な”ママ離れ”するためには計画妊娠しかなったのかもしれない。
りえの生き様を知るたけしは「りえ坊は不幸な子だったからね。相手は誰でもいいから、幸せになれりゃね」と言うが、相手の元サーファーは、ハワイの日本人社会での評判がいまひとつ。出産という女の幸せはつかめても、結婚という幸せが掴めるのかどうか。
(文=本多圭)
色あせない。
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