大物アイドル活躍の赤裸々な「舞台裏」(上)
#アイドル #サンミュージック #松田聖子
淳子、聖子、ユッコ、ノリピー……
育ての親が語る【アイドルたちの40年】(上)
日本のアイドル史を語る上で欠かせない2人の対談を3回に分けてお届け。
片や、桜田淳子、松田聖子、酒井法子、安達祐実、ベッキーなど、常に時代の要請に応じた女性アイドルを輩出してきた、大手芸能プロ「サンミュージック」会長・相澤秀禎氏(来年、同社創立40周年)。片や、「おたく」「チャイドル」などの言葉を生み出してきた“サブカル界の黒幕”中森明夫氏(今年、アイドル評論活動25周年)。中森氏の軽妙な語り口につられて、相澤氏が、大物アイドルたちの活躍の「舞台裏」を、赤裸々に語り出したーー。
「日本最大のアイドル」(中森)である松田聖子を生み出したサンミュージック。その聖子は89年に突然独立を表明、アメリカ進出を目指す聖子と、同プロの方針の違いが原因との報道もされた。その後、聖子はさまざまなスキャンダルやトラブルに見舞われることになるが、今年2月、“聖子がサンミュージックに復帰”と報じられた。大手事務所を離れたタレントが古巣に帰ることは、芸能界では珍しいことであるーー。中森氏は、まずそこから斬り込んだ。
中森(以下、中)聖子さんが、18年ぶりに復帰されるそうですね。
相澤(以下、相)はい。音楽面での「業務提携」という形です。
中 昨年末、聖子さんが会長をディナーショーにご招待されたことがきっかけだそうですが、どういうご気分だったんですか?
相 これまで、聖子に対しては「申し訳ない」という気持ちがあったんです。なぜかっていうと、彼女が事務所を離れる時、本人から何度も電話が入ったんですよ。そこで僕が出て話を聞けば円満解決になってたのに、突っぱねちゃった。だから、聖子がひとりになってからの、いろんな噂を聞くとね、悪いことしたなと。
中 独立後は、ずっと音信なかったんですか?
相 その後、一度だけ成城(相澤氏の自宅がある)で会ったことはあるんですけど、よそよそしく挨拶したくらいで。だもんだから、心の中では、いつも聖子に申し訳ないという気持ちだった。だからディナーショーに招待されたときは、「これは行ってあげなくちゃ」って。
中 聖子さんがステージ上で突然「お世話になった会長さんが来てくださいました」と、挨拶をしたそうですね。
相 私の顔を見て込み上げるものがあったんでしょうね。彼女、ステージで涙。終わってから楽屋に行ったら、聖子はまた泣いて。僕も「ひとりにしてごめんね」と。それで業務提携という形で、音楽の制作やプロモーションで力になろうという話になった。
中 独立に際しては、子どもを置いて渡米することに意見の相違があったといわれていますが。
相 僕は、彼女の希望を叶えてあげたいという気持ちはあったんですよ。ただ、一緒についていたレコード会社のアメリカ担当プロデューサーが、うちを外しにかかったんですね。そういう事情があるから、余計ね、かわいそうでね。
中 いろいろバッシングはありましたが、日本最大のアイドルは松田聖子だと思うんですよ。彼女は、芸能界のみならず、本当に時代を変えましたからね。
相 こんなこと言うと彼女に悪いですけど、初めて会ったときは「田舎のお嬢さんだな」と思った。ただし、声はとっても良かった。
中 70年代、アイドルがちょっと沈んでいたとき、80年に聖子さんがあの衣装、髪形で出てきて、パッと状況が変わった。街中が聖子ちゃんカットになって……。あれは、狙ってたんですか?
相 僕というより、レコード会社、カメラマンや雑誌社の人が盛り上げてくれて、みんなで松田聖子をつくってくれたんですよ。
中 以前、会長が「聖子はO脚だからこそ、ミニスカートにした」とおっしゃっていたのが印象的でした。それを隠そうとロングスカートにしていたら、松田聖子になってない、普通は欠点であるところが、魅力になっている人がアイドルだと。そこが会長独自の感覚ですよね。数々のスターを生んでこられた秘訣だと思いますよ。
(次回に続く/「サイゾー」6月号より)
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