<芸能プロ近代史1>選ぶ側から、選ばれる側へ…オスカー、ホリプロが推し進めたオーディションシステム
昔は芸能界を漠然とひとつの会社のように認識していた。近年は芸能社会の仕組みも理解されるようになり、志望者も芸能プロを選ぶ時代になった。
大小規模に違いはあるが、数多くの芸能事務所が東京を中心に構えている。
なかでも、ファン以外にもその名を轟かせているのが「ジャニーズ事務所」だろう。今年で創設56年。「男性アイドル製造工場」と呼ばれ、今も男性アイドルを送り出している。昔はジャニー喜多川社長自らタレントのスカウトをしていたが、今はネットなどを通じての応募が殺到しているという。「うちの子、キムタク(木村拓哉)よりもイケメン。絶対に売れる」と熱心な母親が売り込みに来るほどだ。男がジャニーズなら、女性タレントで有名になったのが「イエローキャブ」だった。名物社長・野田義治社長が立ち上げた事務所は細川ふみえら巨乳アイドルを次々と世に送り出し、爆発的なブームを作り上げた。「水着で世に認知させ、次第に服を着せてタレントにする」という芸能史でも前例のない手法だった。
文字通り名刺も黄色。社長自らスカウトすることもあったが、グラビアブームに乗り自ら「グラドルになりたい」と巨乳を揺らして事務所を訪ねてくる子もいたそうだ。
余談だが、広島から上京してきた20歳の女の子が「グラドルになりたい」と人を介して相談をしてきたことがあった。細身の可愛い子だった。バイトで貯めたお金で豊胸手術までしてやる気満々。細身で巨乳はちょっと不自然にも見えたものの、ブームに乗って「売り出せる」と事務所の反応は上々だったが、やがて問題が発生した。
「高校時代にやんちゃしていて、暴走族の彼と一緒に背中にバラの花のタトゥーを入れたの。背中を映さないグラビアならわからないでしょう」と変な理屈を言っていたが、タトゥーが入っていること事体、芸能界では基本的に難しい。諦めきれない彼女は美容外科でタトゥーをレーザーで消して欲しいと相談するも、「タトゥーを消すにはミリ単位で値段が決まっていて、彼女の場合、広さからして200万はかかる。消してもケロイドのような跡が残る」と言われ、泣く泣く故郷に帰っていった。
多くの人気タレントを輩出した事務所は志望者も集まりやすく、事務所は繁栄するという実証にもなった。今や自社ビルを持つ大手事務所もたくさんある。老舗事務所の幹部が回顧する。
「昔は小さな事務所を借りて、それこそ電話一本で仕事はできた。それで良かった。今、そんな事務所だったら誰も来ない。テレビ局に近い赤坂や六本木にお洒落な事務所を借りて、スタッフもIT企業のように若くて今風の子が多く、社風が明るい。恐いオッサン風がいた時代とは違う」
こうしてタレントを選ぶだけでなく、志望者が事務所を選ぶ時代に変遷していった。事務所主催の公開オーディションも盛んに行われている。有名なのがオスカープロモーション主催の「国民的美少女コンテスト」だ。「ゴクミ」こと後藤久美子人気がブームとなり、ゴクミの名前を冠にしたコンテストはテレビで中継することもあった。
第二のゴクミを目指して全国から女の子が集まった。グランプリ獲得者だけでなく、他の賞を獲得した子もスカウトし、タレントとして育てた。これが米倉涼子や上戸彩など売れっ子が誕生した背景である。さらに大手事務所「ホリプロ」ではタレントスカウトキャラバンと銘打ったオーディションを開催。
コンテストは次第に男性にも波及。「イケメンコンテスト」まで開催されるようになり、一気にイケメン俳優が増えていった。スカウトされた特別な人だけが入る世界ではなく、大規模オーディションの開催によって芸能界の入り口は確実に広がり、より多くの志望者が集まるようになった。某マネージャーは「誰を選ぶかではなく、誰を落とすかの作業でもある」と嬉しい悲鳴を上げる。
芸能界は依然として華々しい世界ではあるが、落とし穴もある。事務所が増えすぎたことにより、事務所同士がシノギを削るサバイバルが始まっている。
次週は、元祖・芸能プロ「ワタナベプロ」の底力について言及する。
(敬称略)
二田一比古
1949年生まれ。女性誌・写真誌・男性誌など専属記者を歴任。芸能を中心に40年に渡る記者生活。現在もフリーの芸能ジャーナリストとしてテレビ、週刊誌、新聞で「現場主義」を貫き日々のニュースを追う。
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