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『社にほへと』開発中止で、神社本庁を“悪玉”にする人の不可思議から考えたこと

『社にほへと』開発中止で、神社本庁を悪玉にする人の不可思議から考えたことの画像1神社本庁公式サイトより

「どう読んだら、神社本庁にヘイトをぶつけることができるのだろう」

 ここ数日間、そんなことを考えた。

 自分が書きたいテーマを体で感じ取るために、さまざまな人に出会い、現場へと参加する。それが、文章を書くための基本だと思っている。「参加」とはいうけれど、実際には「覗き屋」である。すでに終わってしまった過去の出来事には参加できないし、取材すべき人物と行動を共にするといっても限界はある。だから「覗き屋」なのである。大手メディアの報道や、学者・批評家の類いは、上から覗いて、すべてを知った気になるものだ。

 私が目指しているのは、そうではないものである。まず、さまざまなテーマに首を突っ込んでみたい自分がいて、その後から文章を書く気力が湧いてくるのである。正邪の判断。ともすれば、取材相手が吐く言葉がホントかウソかなども、どうでもよい。まずは自分の感じ取ったことを記録し、それを読者にも共感し、追体験してもらいたいと思っているのである。

 先日、DMM GAMESがブラウザゲーム『社にほへと』の開発を中止したことを発表してから、4月に書いたルポルタージュへのアクセスが再び増えた。実のところ、記事が出て事前登録受付が中止されて以降の内部での動きが、ちらほらと耳には入っていた。だから、タイミングを見計らって開発中止を発表するのだろうと思っていた。そして、みんな『社にほへと』の存在を忘れたであろう頃になってからの開発中止の発表。それが注目を集めたことには、少々驚いた。

 どういった人々が私のルポルタージュを読んで、どんな感想を抱いたのだろうか。それを無視することはできない。だいたい、原稿を書く集中力が途切れた深夜に、浅川マキでも聞きながらエゴサーチをする。

 4月に神社本庁に取材に出向き、いざ原稿を書こうと机の前に座った時、思い浮かんできたのは、自分がいかにして神社を崇敬するようになってきたかということであった。大手企業が手がけるこのゲームが、神社には連絡もなく製作されていることはセンセーショナルな話題だと思った。けれども、わずかな文字数で、そのことだけを記しても意味はないと思った。それよりも、この話題を入口にして、大勢の人が神社と信仰を考える機会になればよいと思った。

 4月の時点でも、今回、再びアクセスが増えた時でも、大勢の人が共感をしてくれているように見えた。

 けれども、そうではない人もいる。神社本庁がゲームにクレームをつけたと思い込み、ツイートをする人もいた。さらに驚いたのは、私が神社本庁に取材に行ったことそのものを批判する人もいた。

 すでに読んでくれている人には説明する間でもないが、取材に応じてくれた広報国際課の岩橋克二氏は、神職らしく冷静で丁寧な人物であった。ゲームの「おみくじ」には「これはちょっと……」という言葉を漏らしたけれども、わかりやすく、本来の「おみくじ」の意味について語ってくれた。取材の時間の多くは、ゲームそのものの話題よりも、私が好奇心のままに神社と信仰について尋ねるために費やされた。

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