まん延する暴力、信者の減少、教祖の方針転換……甲子園常連「PL学園野球部」はなぜ消滅したのか?
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史上初の大阪勢同士の決勝となった春の選抜高校野球は、大阪桐蔭が8-3で履正社を制し、5年ぶり2回目の優勝を飾った。
だが、かつて甲子園の風物詩といえば、アルプススタンドを埋め尽くす応援団が描く「PL」の二文字だった。桑田真澄、清原和博、立浪和義、片岡篤史、松井稼頭央、前田健太など数多くのプロ野球選手たちを輩出したPL学園は、創部以来60年間の歴史上、37回にわたって甲子園の地を踏み、7回の全国制覇を達成している。しかし、もう二度と、胸に「PL GAKUEN」と書かれたユニフォームが甲子園をにぎわせることはない。伝統ある強豪校の野球部は2016年、「休部」という形でその歴史に幕を下ろした。
いったい、PL学園野球部に何が起こったのか? その隆盛から崩壊までを追ったノンフィクション『永遠のPL学園 六〇年目のゲームセット』(柳川悠二/小学館)からひもといてみよう。
その名の通り、PL教団(パーフェクト リバティー教団)が1955年に創設したPL学園は、当初から野球に力を入れており、野球部設立からわずか6年目の62年で異例の甲子園出場を果たす。その裏には、国民的な娯楽であった野球で有名になることによって、全国にPLの名前をアピールしようという教団側の思惑もあったようだ。当時の教祖・御木徳近(みき・とくちか)は、時に監督の人事や特待生の選定に口を出すまで、熱心に野球を後押しをする。そして83年、徳近は鬼籍に入ったものの、その先見の明はついに開花する。清原・桑田が入学し、PL学園には本格的な黄金時代が到来。信者数も、公称256万人を記録するまでに膨れ上がった。
しかし、80~90年代にわたって長らく続いてきたPL黄金期の歯車は、次第に狂い始める。2001年3月、2年生部員が1年生をパイプ椅子で殴打する事件が発生。学校側は、2年生部員を自宅謹慎としたものの、高野連に対しての報告を怠った。これが発覚し、当時の監督が引責辞任。また、顧問として選手勧誘を担当しながらPLの人材を支えてきた井元俊秀も学園を去ってしまう。
そんな暴力の温床となったのが、PL学園野球部に受け継がれてきた厳しい伝統だ。「3年神様、2年平民、1年奴隷」と言われる野球部で、入学したばかりの1年は先輩の付き人となり、先輩に対する受け答えは「はい」「いいえ」しか許されない。そのほかにも、笑顔禁止、シャンプーの使用禁止、お菓子禁止、部屋では体育座り、廊下を通る女子を見てはいけない……など数々の禁止事項が存在していた。もしもこの掟を破った場合、1年生は連帯責任で厳しい鉄拳制裁を加えられる。そんなPL野球部について、OBである清原は、かつてメディアの前で「暴力はPLの伝統です」と語った。
ただし、昭和の時代は、どの強豪野球部でも似たような状況だっただろう。だが、伝統のプライドを持ったPL学園では、時代が変わっても、その伝統を変えることができなかった。08年には監督が部員に対して暴力を振るい、解任。11年には部員の部内暴力と喫煙で1カ月の対外試合禁止。さらに、13年には上級生による暴力事件が発覚し、6カ月の対外試合禁止と、たびたび暴力事件が発生する。これらの事件によって、世間では「暴力はPLの伝統」というイメージが強まるばかり。もちろん、そのような負のイメージは、教団側にとってもうれしいものではない。
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