ダンサーから“パフォーマー”でビジネス拡大――EXILEが改革を起こした雑誌から読み解くダンス・ビジネス
――今や学校授業の必修科目としても採用されるストリート・ダンス。その舞台で頂点を極めれば、エンタメの世界で大活躍できるかもしれない。しかし、21世紀に突入した頃は、ダンスで食ってくなんて……絵空事だったんだよ! そんなシーンを支えてきたダンス専門誌と、ダンス・ビジネスを塗り替えたEXILEの歴史を振り返る。
1990年代前半、バラエティ番組『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』(日本テレビ系)の人気コーナー「ダンス甲子園」や、深夜番組ながら人気を博したダンス番組『DADA L.M.D.』(テレビ朝日系)から誕生したダンス&ボーカル・ユニット〈ZOO〉の活躍をきっかけに、日本中を席巻したストリート・ダンスの一大ムーブメント。それまで裏方的存在が強かった“ダンサー”がテレビの主役となり、そんな花形の存在に憧れて、日本全国のティーンエイジャーがダンスに興味を抱く。そしてダンサーを目指す彼らにとって、重要な教科書的役割を担ったのが、雑誌で特集されるダンスの記事であった――。本稿では、日本のダンス雑誌の歴史を紐解きながら、その裏に直結するストリート・ダンスシーン、およびビジネスの流れを追い、最終的には現在のダンス・ビジネスにおける絶対的覇者〈LDH〉との繋がりまでを迫う。
全国のダンサー歓喜 初のダンス専門誌創刊
90年代にストリート・ダンス、およびダンサーを起用して特集を組んでいた雑誌といえば、若者向けのファッション誌がメインで、例えば積極的に誌面で紹介していた「Fine」(日之出出版)であっても、そのページ数は限られていた。一方で、大阪を拠点にダンスコンテスト『DANCE DELIGHT』を主催するアドヒップが、フリーマガジン「ダンスディライトマガジン」を94年に創刊している(日本最初のストリートダンス専門誌といわれ、現在はウェブメディアとして継続中)。そんな中、フリーマガジンではなく、商業誌としてストリート・ダンスシーンに参入してきたのが、音楽出版社〈リットーミュージック〉より01年2月に創刊された「ダンス・スタイル」だ。同誌の初代編集人を務めた坂上晃一氏(現在は、音楽およびダンス関連の企画会社を経営)に当時を振り返ってもらった。
「その頃、リットーミュージックには映像制作部署があり、ギターやベースなどの教則ビデオを作る流れで、私はダンスビデオ(『ダンス・スタイル・ベイシック』)を作ることになったんです。最初は2000本くらい売れればと思っていたんですが、結果的にシリーズ累計で30万本以上売れるヒット商品となった。以後、会社はダンス・ビジネスの拡大を考え、編集スタッフを集めてダンス専門誌『ダンス・スタイル』を創刊しました。
創刊直後から反響が大きく、TBSの報道番組で取り上げられたのですが、それをツアー中のDA PUMPがたまたま観ていたらしく、『雑誌に出たい』という話になったんです。当時、彼らは飛ぶ鳥を落とす勢いでしたから、2号目の表紙を飾ってもらいました。当初は教則ビデオが売れても雑誌は儲からないだろうと消極的だったんですが、専門誌を作ることによって多方面から声がかかったり、新たなコネクションができたり、ビジネスとして成立するのではないかという感覚を得ました」
その後「ダンス・スタイル」は季刊化を経て月刊化、「ダンスをやりたいが、情報がない」という地方の中高生などのバイブルとなる(当時の発行部数は10万部)。当時の「ダンス・スタイル」読者のひとりが、EXILE擁するLDHが運営元となるダンス・ボーカル・アクトスクール「EXILE PROFESSIONAL GYM」(以下、EXPG)のマネジメント事業部の部長であり、昨年まで東京校の校長も務めていたKAZUYA氏だ。
「(『ダンス・スタイル』に掲載されたレッスンページを見ながら)とても懐かしいですね。僕の出身は栃木なんですが、近くにダンススクールもなかったので、若い頃は『ダンス・スタイル』や『東京ストリートニュース!』(学研パブリッシング)で特集されたダンス記事を頼りに練習をしていました」
そういった教則記事のほかにも、全国に点在するスクールの紹介やダンサー向けファッションページといった、実用的なコンテンツを網羅していた「ダンス・スタイル」だが、やはり雑誌の顔となるヘッドラインを飾っていたのは、ダンサー/アーティストのインタビューだ。そこに登場してきたラインナップは、まさに当時の国内ダンスシーンの歴史そのものともいえる。
創刊号の巻頭インタビューには、振付師としても活躍していたTRFのSAMが登場。2号目には前述の通り、DA PUMP。そして続く3号目には、初代J Soul Brothersから改名したばかりのEXILEの紹介記事が“小さく”掲載されているが、ブレイクを果たした4号目(04年)では、パフォーマーであるHIRO、MATSU、USA、MAKIDAIをフィーチャーしたEXILE初のインタビュー記事が特集されている。そこから一気にEXILEの露出が増えていくことになるが、当時のインタビューについて、前出・坂上氏が話す。
「彼らのインタビューは、こちらの質問に対して答えるというより、すでに自分たちで言いたいことが明確に決まっていた印象があります。おそらく、そういった意識は、事前にメンバー間で共有されていたんじゃないかなと思います。
HIROさんはZOOのキャリアもあって、芸能界の仕組みを熟知しており、当時のEXILEの基盤作り、ひいてはダンスをアングラなサブカルからメジャー化の道筋を見出すために力を注いでいたのでしょう」
さて、ダンサーにとって指標であった「ダンス・スタイル」だったが、09年4月号をもって休刊を余儀なくされる。雑誌の売り上げ不振が大きな理由だが、直接的な要因は、並行して販売されていた映像作品(ビデオからDVDへ移行)のセールス鈍化だと坂上氏が続ける。
「それまではDVDの売り上げで雑誌の赤字を補填できていたのですが、だんだんそうもいかなくなってきた。また、読者のダンサーたちが好むようなアパレルブランドやシューズ・メーカー、グッズ販売会社などからの広告収入も目指しましたが、やはりそこはストリート・ファッション誌には到底かないません。雑誌単体として儲けを出すのは、非常に困難となりました」
ちなみに坂上氏の後に「ダンス・スタイル」の編集長を務めていた人物が、現在は各学校の部活であるダンス部の学生向けフリーマガジン「ダンスク!」を発行していたり、あるいは「ダンス・スタイル」出身のライターがストリート・ダンスのフリーマガジン「SDM」を手がけるなど、ダンス専門誌にかかわった編集者のDNAは、現在も受け継がれている。
また、「ダンス・スタイル」とほぼ同時期にスタートしたダンス専門誌「DDD」(フラックスパブリッシング)が現在も発行を続けているが、同誌はバレエやミュージカル、コンテンポラリーダンスなど幅広く扱っているため、ストリートダンスを主に扱う「ダンス・スタイル」とは根本的に方向性は異なるといえるだろう(それゆえに現在も存続しているとも考えられる)。
EXILE大ブレイクの陰でダンスビジネスの拡大
さて、「ダンス・スタイル」が休刊となる前年の08年6月、「DDD」の出版元であるフラックスパブリッシング協力のもとに創刊されたのが、ご存じ「月刊EXILE」だ。08年にEXLIEが掲げた“パーフェクトイヤー”の一環として創刊された「月刊EXILE」だが、すでに雑誌不況といわれていた時代に出版ビジネスに乗り込むことは、いくらEXILEが絶好調であったLDHといえども“無謀”と思われた。しかし、予想に反し創刊号は30万部近くの発行部数を記録したことで、世の否定的な意見を瞬時に吹き飛ばした。
創刊から現在(最新号は109号)に至るまで、一貫してHIROが編集長を務める「月刊EXILE」は、ほぼ毎号、EXILEおよびLDHの所属アーティストが表紙を飾り、所属アーティストのインタビューやファッションページ、各アーティストが担当する趣味を生かした連載ページ、さらにメンバーが出演する企業広告まで、さまざまな形での露出が見て取れる。また、ダンスや音楽だけでなく、映画や舞台、ファッション、スポーツから食に至るまで幅広いジャンルを網羅し、大物俳優や若手の人気女優、海外の大物アーティストらも頻繁に登場。誌面を飾る写真やデザインのクオリティも非常に高く、表紙に冠している通り〈総合エンターテインメント誌〉が完成している。
ちなみに初期の段階で「DDD」とは編集提携を終えているが、12年から現在に至るまで「HUgE」などのファッション誌を手がけてきた右近亨氏が同誌のディレクターを務めている。おそらく洗練された誌面作りは彼の功績による部分が大きい。ただ、これだけエンタメに特化した内容だが、編集の現場は過酷な状況のようで、同誌編集部の内情を知る人物はこう語っている。
「月エグ(月刊EXILE)は基本4人体制の編集部で、とにかく人員が不足していると聞いています。その影響は、少なからず誌面に出ているように感じますね」
実際、見出しやキャッチには改善すべき点が多く見受けられ、誌面構成の転換期に差し掛かっているのかもしれない。これは雑誌好きの筆者としては、強く改善を望みたいところだ。
とはいえ、ダンスだけに限らず、音楽、映画、舞台、ファッション、スポーツ、食――LDHがビジネスでかかわるすべてのジャンルを網羅した「月刊EXILE」。同誌を現代の“ダンス専門誌”とくくるには多少無理があるかもしれない。しかし、ダンサーを“パフォーマー”という言葉に進化させ【編註:もともとEXILEはボーカル以外のメンバーをダンサーではなく“パフォーマー”と称し、それが自然と定着した説が濃厚】、裏方から表舞台へと巣立たせたEXILEの手腕、ストリート・ダンスを基盤にしながらビジネスの頂点に立ったLDHが作り上げた「月刊EXILE」は、ある意味で“究極のダンス雑誌”という見方もできる。
そして、「ダンス・スタイル」から「月刊EXILE」へのダンス雑誌の変革は、LDHが成し遂げたダンス・ビジネス自体の変革でもあり、「ダンス・スタイル」の洗礼を受けた人たちが、現在LDHのビジネスに直接かかわっているのも、ごく自然な流れである。ここで、前出のKAZUYA氏に、再び話を聞く。
「僕がダンスを始めた頃、ダンサーといえば、チームを組んでコンテストに出場し、優勝を目指す。そして、イベントにゲスト・ダンサーとして呼ばれ、その後はアーティストの専属バックダンサーやスクールの講師、あるいは振付師となるのが、ひとつの到達点でした。しかし今ではダンスが学校の必修科目ともなり、当時と比較して、ダンスというツールを使って新たなことにチャレンジできる選択肢は、一気に増えたように感じますね」
今回、別枠でHIROらEXILEメンバーによるインタビューの名言を掲載しているが、インストラクターでありLDHの一社員であるKAZUYA氏の語る言葉の端々からも、LDHイズムがしっかり叩き込まれているのがよくわかる。
「夜空に光る流れ星を見た一瞬で“願い”を言える人は、常にその願いを持っているから、叶う――という言葉がLDHの考え方にあります。EXPGも“夢の持つ力”を大切にしています。夢に向かって努力したことが、夢の実現や新たな夢の発見につながります」(同)
余談だが、EXPGのインストラクターは、人と人のつながり、思想の共有を第一に考え、ほぼ全員がその想いを共有した上で入社を果たすという。
その理由を今回のLDH取材の担当窓口、情報戦略本部・メディア部長の高野氏は、次のように説明する。
「EXILEの看板を掲げたダンススクールですので、EXILEと同じ志を持てるスタッフではないと(採用は)難しいと思います。昔から素性を知っているアーティストやスタッフの仲間であったり、本当に信頼できる仲間と取り組んでいきたいと考えています」
こういった強い信頼関係によって作られているからこそ、LDHという組織がより強固になっているのだろう。しかし、穿った見方をすれば、究極の囲い込みともいえなくもなく、「月刊EXILE」の誌面同様、すべてのジャンルのエンターテインメントをLDHが独占してしまうかのようにも思える。
「いえ、まったくそういった意識はないです(苦笑)。他者を蹴落とすのではなく、全体の底上げにつながる仕事をまっとうしていきたいと考えています」(高野氏)
この発言の後、高野氏の目の奥がキラリと光ったような気もしなくはないが、LDHのビジネスはすでに日本国内を飛び越え、世界に目が向けられている。EXPGはすでにニューヨークと台北にも開校し、間もなくロサンゼルスにも進出予定だ。今年頭にはLDHの代表取締役を退任したHIROのLDH WORLDチーフ・クリエイティブ・ディレクターへの就任発表と共に、“グローバル・エンタテイメント企業”としてアジア、ヨーロッパ、アメリカなどへの世界進出を見据えた新体制を発表。昨年末に発売された「月刊EXILE」2月号の誌面では「A new era of LDH」と題した特集が組まれ、さらに別枠で紹介している岩田剛典の発言にもあるように、EXILEは2020年の東京オリンピックにも照準を定めている。
ストリートから出発したダンスが、ビジネスとして大きな影響力を持ち、最終的にはオリンピックの舞台へ――。
一昔前のビジネスにおけるダンサーの到達点は、あくまで裏方止まりの印象だったが、EXILEが浸透させたパフォーマーという言葉の定着と共に大きな変化が起きた。それは、アンダーグラウンドで機能していた「ダンス・スタイル」のようなストリート・ダンス専門誌が役割を終え、「月刊EXILE」が総合エンターテインメント誌と成り上がったことが証明しているともいえる。
EXILE、ひいてはLDHが掲げる、ダンスを軸とした果てしない夢と野望は、「月刊EXILE」の誌面も含め、今後もウォッチしていきたい。
(文/大前 至)
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