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日刊サイゾー トップ > カルチャー > 映画  > ピンク映画の巨匠が語る50年の歴史

“ピンク映画の巨匠”が若松孝二、可愛かずみらと過ごした日々を語る『つわものどもが遊びのあと』

tsuwamono01ピンク映画50年の歴史を語る渡辺護監督。とりわけ若松孝二監督たちと競い合った黄金時代のエピソードは語りにも熱が入る。

“ピンク映画のクロサワ”と呼ばれた男がいた。ピンク映画とは1962年に歴史が始まったインディペンデント系の成人映画を指した呼び名だが、ピンク映画の黎明期にあたる1965年にデビューし、生涯200本以上ものピンク映画を撮り上げた渡辺護監督がその人である。ピンク映画全盛期には年間12本ペースで作品を量産し、連続暴行殺人魔・大久保清をモデルにした『日本セックス縦断 東日本篇』(71)は大久保逮捕の翌月に撮影され、大ヒットを記録した。美保純のデビュー作『制服処女のいたみ』(81)、可愛かずみのデビュー作『セーラー服色情飼育』(82)を撮ったのも渡辺監督だ。2013年12月、ピンク映画50周年記念作『色道四十八手 たからぶね』(14)の撮影直前に大腸がんで亡くなった渡辺監督だが、生前に自身の生涯とピンク映画の歴史を語っており、「渡辺護監督自伝的ドキュメンタリー」(全10部)として記録されている。中でも第2部『つわものどもが遊びのあと』は、『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』(08)など数多くの社会派作品を放った若松孝二をはじめとする奇才たちと競い合ったピンク映画の黄金期が語られ、見逃せない内容となっている。

 第1部『糸の切れた凧』は渡辺監督の少年期から始まり、ピンク映画『あばずれ』(65)で監督デビューを果たすまでが語られたが、第2部『つわものどもが遊びのあと』で渡辺監督の口から飛び出す名前は錚々たる顔ぶれだ。『壁の中の秘事』(65)などの問題作で世間を騒がせた若松監督とはお互いに監督デビューする以前からの知り合いだった。センセーショナルな作風でいち早く注目を集めた若松監督に対し、渡辺監督は新劇出身らしい理論的な演出で、しかも男女の絡みもエロチックに撮ることから、次第に評価を高めていく。ほぼ同時期にデビューした若松監督と渡辺監督はライバルであり、ピンク映画というインディペンデントな製作現場で共に闘う同志でもあった。「若ちゃんと新宿で呑むと、『革命が成功したら、新宿御苑はナベさんにあげるよ』なんて言うんだよ。あいつは革命を何だと思ってるんだ(笑)」といった若松監督との交流が語られる。また、『トゥナイト』(テレビ朝日系)の風俗レポートで人気を博す山本晋也監督の作品はすべて“客観カット”で撮られていることに気づき、渡辺監督は大いに触発されたという。多忙を極めた向井寛監督からは、「ギャラは弾むから」と
内緒で監督代行を頼まれたことを明かす。

 本作の配給を手掛けているのは、ピンク映画専門誌『PG』の編集人である林田義行氏。本作の資料的価値をこう語る。

林田「ピンク映画のほとんどはフィルムもスチールも処分されており、ビデオ化やDVD化されている作品はごく僅か。渡辺監督のデビュー作『あばずれ』も処分されていたと思われていたんですが、最近になって神戸映画資料館が発見したんです。ピンク映画は資料もほとんど残っていない状況なので、渡辺監督が語るピンク映画界の内情はとても貴重なもの。僕自身もピンク映画を見始めたのは80年代後半に入ってからなので、ピンク映画最盛期の熱気は体感していないんです。渡辺監督が若松監督たちと過ごした、ピンク映画がいちばん活気があった頃のエピソードの数々は感慨深いものがあります」

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