トップページへ
日刊サイゾー|エンタメ・お笑い・ドラマ・社会の最新ニュース
  • facebook
  • x
  • feed
日刊サイゾー トップ > その他  > オリラジ写真集はやっぱりLGBT差別

「変態」コピーで炎上、オリラジ写真集はやっぱりLGBT差別だ! 中田敦彦の保守的価値観とエリート主義

orientalradio_160819_top.jpg『オリエンタルラジオ×青山裕企 写真集 DOUSEI ─ドウセイ─』(KADOKAWA)

【本と雑誌のニュースサイトリテラより】

 お笑いコンビ・オリエンタルラジオが、9月2日に発売する写真集をめぐって炎上騒ぎとなっている。

 その写真集とは、『オリエンタルラジオ×青山裕企 写真集 DOUSEI ─ドウセイ─』(KADOKAWA)。『スクールガール・コンプレックス』などで知られるフェチ写真家の青山氏が、オリラジのふたりがもし「同棲」していたら、という設定で撮り下ろされたというが、問題は、「お笑いナタリー」に掲載された写真集の発売告知記事。記事タイトルは、こうだ。

『オリエンタルラジオ”究極の変態写真集”発売、2人の同棲物語』

 まるで”同性カップルの同棲=変態”とも感じられる、このタイトル。記事のほうでも、〈写真集の制作にあたってオリラジが望んだことは「究極の変態写真集」であることや、青山の紡ぎ出す写真世界に自身が入り込むこと〉と書かれていた。そのため、ネット上では「異性間ならノーマルで同性同士の睦まじい絵ならば”変態”?」「あきらかな同性愛差別だ」などと大炎上したのだった。

 こうした事態を受けて、KADOKAWA文芸編集部の公式Twitterでは担当編集者が、このように釈明した。

〈誤解も生まれているようですので明確にしておきたいのですが、本書の製作において「同性どうし」”だから”「変態」という意識はみじんも有りません。「変態」ということばは、「青山さんの写真表現」に依るものです。〉
〈「同性どうしの同棲」は、ありえる日常、普通の風景として設定したにもかかわらず、紹介の文脈で、製作上意図していない差別を発想してしまったかたがいること、それにより傷ついたかたがいることは、申し訳なく思っております。〉

 だが、「変態」という言葉が同性カップルをさしているのではなく、青山氏の写真を評価したものだったとしても、この写真集にほんとうに〈差別性〉はないのか。

 そもそも、今回の写真集は、中田敦彦が青山氏のファンで、「自分たちも撮ってもらい、写真集を作りたい」と熱望したことから企画がはじまったという。青山氏といえば、これまでおもに女性を被写体にして作品を発表、なかでも男性目線から見た女子高生のフェティッシュな写真で人気を集めてきた写真家で、男性芸能人の写真集を手がけるのはオリラジが初となる。

 そして、実際の写真集づくりでも、オリラジのネタや「PERFECT HUMAN」と同じように、中田がコンセプトを立て、中田主導で進められた。”同性の同棲”という設定も、おそらく中田のアイデアだろう。

 では、中田はいったいなぜ、そんな写真集をつくろうとしたのか。福田萌と結婚して家庭を築いている中田と、さまざまな女性と浮名を流す”チャラ男”キャラクターの藤森慎吾に同性愛的な要素はないし、それ以前に、中田と藤森には男同士の同居を想像させるようなコンビとしての仲の良さがまったく感じられない。二人の間に漂っているのはむしろ、中田が藤森を一方的に抑圧している主従関係であり、険悪な空気感だ(実際、一時は解散危機も報じられるなど、二人の仲が悪さは業界でも有名だ)。

 にもかかわらず、中田がこんな設定を考えついたのは、明らかに「腐女子ウケ」という計算をしたからだろう。以前、バナナマンが不動産情報のCMに出演し、今回と同じようにまるでふたりが同居しているかのような演出がなされ、BL愛好家のあいだで密かな話題となったことがあったが、そうした狙いが中田にはあったはずだ。

 その計算自体が「俺、今の時代のこと、わかってるでしょ」的ないやらしさ丸出しで中田らしいが、しかし、もっと問題なのはその中身だ。

 現在、公表されている写真集のカットを見ると、ふたりがテーブルを囲んで中田が相方の藤森慎吾に箸で食べ物を口に運んだり、ふたりが添い寝したり、中田のネクタイを藤森が結んだりと、露骨な二人の絡みがこれでもかと強調されている。

 担当編集者は「ありえる日常、普通の風景を設定した」と弁明していたが、こうした写真を見るかぎり、彼らが演じているのは「日常」などではない。世間が考えるステレオタイプな同性愛者像。しかもそれは、異性カップルの古色蒼然とした的な性役割を男同士に当てはめただけの、偏見に満ちたものだ。その背景にあるのは、異性愛こそスタンダードであるという考え方だ。

 そこからは、「どうせゲイカップルってこんな感じで、いちゃついてるんでしょ」という決めつけと、同性愛者の性をネタとして嘲笑しようとする態度が透けてみえる。

 たとえば、異性のカップルを描いた今どきの恋愛ドラマや映画に「慎吾、あーん」みたいなベタなシーンがあるかどうか考えてみればいい。そんなベタなことを平気でやれるのは、「男同士だったら面白い」という発想があるからだろう。かつて、とんねるずがコントで「保毛尾田保毛男」などというゲイ差別ギャグを平気で繰り広げていたひどい時代があったが、中田がやっていることはそれとほとんど大差ないのではないか。

 しかし、中田がこうしたマイノリティ差別をしてしまうのは、当然のことなのかもしれない。そもそも、中田の本質はエリート主義で、非常に保守的な恋愛観、結婚観の持ち主だ。福田萌と結婚した直後は高学歴夫婦を売りにし、ベッキーの不倫騒動ではベッキーを厳しく糾弾。ファンキー加藤の不倫では「不倫はよくない。これは言い続けないといけない」と、現在の世間を覆う道徳ファシズムの代表のような意見を述べていた。

 ようするに、旧来的な結婚観、恋愛観の持ち主である”エリート”中田にとって、同性愛者は「異物」でしかなく、今回の写真集も「異物」をいじっているだけ、という感覚なのだろう。

 いや、同性愛者に対してだけではない。こんなもので「腐女子ウケ」を狙っているところを見ると、腐女子に対してもその志向をまったく理解せず、上から目線でバカにしていることがありありとうかがえる。

「PERFECT HUMAN」で再ブレイクして以降、「発想が新しい」「時代に対する感度がすごい」などともてはやされている中田だが、実はかなり古くて、グロテスクなエリート思想の持ち主なのだ。「PERFECT HUMAN」の歌詞は、意外にホンネだったりして。
(酒井まど)

最終更新:2016/08/20 07:30
ページ上部へ戻る

配給映画