宮沢りえが娘に受けさせる“特権的教育”とは? 早くもステージママの片鱗が…
【本と雑誌のニュースサイトリテラより】
ステージママの代表格といえば何と言っても宮沢りえの母・光子だろう。りえは「三井のリハウス」のCMでは清純な少女役として清楚なイメージで脚光を浴びるが、16歳のときカレンダーでお尻丸出しのふんどしルックを披露、18歳でヘアヌード写真集『Santa Fe』(朝日出版社)を発表、などセンセーショナルな話題をふりまく。さらに1992年には19歳で貴花田(現・貴乃花親方)との突然の婚約発表そして破棄──。
これら全てをプロデュースし、りえの傍らに常に寄り添い、仕掛けたのが事務所社長でもあった宮沢光子だった。そんな光子が昨年9月に急逝して9カ月。りえが改めて亡き母への思いを語り話題になっている。
「母と私」。女性誌「FRaU」(講談社)2015年7月号ではこんな特集を組んでいるが、りえはここの表紙とトップインタビューに登場。母との思い出のなかでも、鮮明に記憶に残っていることとしてこんなエピソードを語っている。
「(国民的美少女として多忙な時期)睡眠時間も少なかったため、体力的に疲れてしまい、ついぽろりと『今日は眠いから行きたくない』というようなことを漏らしたら、『辞めたいなら辞めなさい。ひとつの作品をつくりあげるためにたくさんの人がもっと眠い思いをしてやっているというのに、あなたがそんなことを言っていたらダメじゃない』と叱られました」
母は自分の個人的欲望ではなく「私(娘のりえ)のために頑張るというスタンス」だった。以降、りえには「やりたくない」と弱音を吐くことは無くなったという。また光子の“最期”もりえにとっては宝物だった。
「病院に入らず最期まで自宅で過ごし、人間がどういうふうに生き、そして死んでいくか、身をもってそのストーリーを娘に見せてくれたことです」
しかし、このインタビューでりえが主に語っていることは、母親のこと以上に、娘のことだ。
例えば光子の最期を“宝物”だという理由も娘に関することだった。
「我が家は、家族全員が母の闘病に集中し目撃し、自分の人生の事件として捉えました。娘は私に『長生きしてほしい』と言うんですよ。それは、母の死からリアルに命のかけがえのなさを感じ取ったからだと思うんですね」
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