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日刊サイゾー トップ > 連載・コラム  > サッカー大久保、父との約束
アスリート列伝 第14回

“燃え尽き症候群”から大逆転の代表選出 サッカー大久保嘉人を奮起させた、父の遺書

ookubo.jpg『情熱を貫く』(朝日新聞出版)

アスリートの自伝・評伝から読み解く、本物の男の生き方――。

 2010年6月29日、サッカーW杯・南アフリカ大会。パラグアイとの一戦で、日本代表はPK戦の末に敗れた。日本代表にとって初となる決勝トーナメント進出を懸けた戦いだったが、あと一歩のところで、ベスト8の称号はするりと逃げていった。そして、初めて日本代表としてW杯に出場した大久保嘉人の戦いも終わった。


「俺、もう代表はないから」(『情熱を貫く』朝日新聞出版)

 日本代表の青いユニフォームを脱いだ大久保は、妻に向かってこう語った。W杯で持てる力のすべてを出し尽くし、すでにその精神は限界を迎えていたのだ。

 日本に帰国した後、大久保は、ひどい倦怠感に襲われた。ボールを蹴ることも、走ることもできなくなり、慌てて病院で検査を受けるも、体調に問題は見当たらない。カウンセリングの結果、医師は、大久保に「オーバートレーニング症候群」という診断を下した。それは、別名「燃え尽き症候群」とも呼ばれている心の病。人生を懸けた戦いの後には、これまで味わったことのないような苦しみが待っていたのだ。

 サッカーができなくなってしまった彼は、過去に痛めた左膝半月板の手術をし、療養先として長崎県・五島列島を選んだ。テレビも見ず、携帯電話の電源を切った大久保の目的は、左膝以上に、心を治療することだった。豊かな自然に囲まれた五島列島に、大久保は逃げ場を求める。そうしなければ、心がもたなかったのだ……。

 サッカーに携わる誰もがそうであるように、大久保もW杯の大舞台に憧れていた。1994年に開催されたアメリカ大会。ブラジルのロマーリオ、イタリアのバッジョ、アルゼンチンのマラドーナ、世界最高のスター選手たちが、小学6年生の大久保を魅了していた。そして、彼らに魅了されたのは大久保だけではなかった。父・克博もまた、W杯という檜舞台のとりこになった。いつしか、親子は「W杯出場」という夢を抱くようになった。

 だが、大久保は、2006年のドイツ大会の日本代表の座を、あと一歩のところで逃してしまう。悔しさに打ちのめされながら、テレビの前にかじりつき、1分2敗で戦いを終えた日本代表の姿を見る。そして、2010年までの4年間を、日本代表の座をもぎ取るために捧げることを決心したのだった。ドイツ・ヴォルフスブルクに移籍したにもかかわらず、出場機会が少なかったことから、わずか半年で帰国。世間から「失敗」という目で見られても構わない。彼はブンデスリーガに所属するという名誉よりも、W杯でベストパフォーマンスができるよう、日本のクラブチームを選んだのだ。

 そして2010年、岡田ジャパンの一員として、大久保は念願のW杯初出場を果たした。出国前日、「後悔のないように。頑張ってこい」そう言って父は息子を送り出す。父は、その試合を、酸素マスクをつけながら病室のテレビで見ていた。その時、父の体はがんに侵されていたのだ。

 そして、大久保は、南アフリカ大会で日本代表のすべての試合に出場した。ゴールネットこそ揺らすことはできなかったが、その夢は現実になったのだ。そして、夢の後遺症は大きくのしかかった。

「お前はバカか!」
「そんなことは、あっちゃならん!」(同)

 大久保が代表引退の意向を伝えると、酸素マスクをした父は、息子を怒鳴りつけた。彼にとって、息子の弱音は何よりも我慢ならなかったのだ。けれども、心に穴が開くほど深い倦怠感にとらわれた大久保には、もう、青いユニフォームを着て走るモチベーションは残されていない。

「お父さん、ごめん。俺はもう、これ以上、走れない」(同)
 
 大久保は、そんな言葉をそっと胸にしまった。何年もがんと戦っている父に向かって言える言葉ではなかったのだ。

 南アフリカ大会から時を経て、大久保の精神は徐々に回復。なんとかサッカーをできるレベルにまではたどり着いた。所属していたヴィッセル神戸では中盤を任されることも多くなり、プレーの幅も増えていく。しかし、FWとして、得点を挙げ続けてきた大久保には、釈然としない気持ちが残っていた。大久保は、2013年、愛着のあるヴィッセル神戸から川崎フロンターレに移籍。そして、移籍から3カ月後、父は静かに息を引き取った。

 危篤の知らせを聞いた大久保は、試合を終えると一目散に故郷である小倉に向かった。父は、大久保が病院に到着すると、まるでそれを待ち構えていたかのように昏睡状態から目を覚ます。医師が言うには、それは奇跡のような出来事だった。しかし、奇跡も二度は続かない。父が亡くなったのは、大久保が到着した翌日の5月12日午後1時33分だった。

 最愛の父の病室を片付けていると、姉が白い封筒を持って立っていた。テレビ台の引き出しの2段目に入れられていたその封筒の中には、病床の父が書いた、震えた文字が記されていた。

「日本代表になれ 空の上から見とうぞ」(同)

 幼少の頃、大久保の家庭は、その日の食事に困るほどの貧しい家だった。にもかかわらず、父は借金をしながら、サッカーの名門・国見高等学校サッカー部総監督だった小嶺忠敏が作った「小嶺アカデミースクール」に入る大久保の背中を後押しした。父は、その人生を、息子がサッカー選手として活躍するという夢に懸けたのだ。父の最後の言葉は、再び大久保を奮起させた。目標を得た大久保は、初めてJリーグの得点王に輝き、誰もが認める活躍を収めていった。もう一度日本代表に、もう一度W杯に――。それは大久保の願いであり、父の願いでもあった。

 父の命日である2014年5月12日、ザッケローニ監督が読み上げた代表メンバー23人の中に、大久保の名前はあった。
 
ブラジルの空の上で、父は背番号13を見守っているだろう。
(取材・文=萩原雄太[かもめマシーン])

最終更新:2014/06/17 16:39
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