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日刊サイゾー トップ > インタビュー  > 寺山修司没後30周年に苦言?

元・天井桟敷舞台監督が、寺山修司没後30周年にラディカルな提言「脱・寺山のすすめ」

terayamashuji.jpg『寺山修司:天才か怪物か』(平凡社)

 今年、没後30年を迎える寺山修司が、再び脚光を浴びている。忌野清志郎らとともにタワーレコードのポスターに起用されたのを皮切りに、世田谷美術館、ワタリウム美術館では大規模な回顧展を開催。パルコ劇場をはじめ、全国各地で30作品以上の演劇が再演される。さらには、スピードワゴン・小沢一敬やサカナクション・山口一郎らもファンであることを公言するなど、若い世代にもその存在が広く知られつつある。

 学生の頃から俳句・短歌で天才的な才能を発揮していた寺山は、31歳の時に劇団「天井桟敷」を結成。折しも数々のカウンターカルチャーが花開いた60年代。唐十郎の「状況劇場」や鈴木忠志の「早稲田小劇場」らとともに、「アングラ演劇」と呼ばれる新しいジャンルを切り開いた。『市街劇』『暗闇演劇』『訪問劇』といった、それまでの“演劇”の枠にとどまらない数々のスキャンダラスな作品を上演し、それらの作品は30年以上を経た現代にまで語り継がれている。

 さらに、エッセイストとしても『書を捨てよ、町へ出よう』『家出のすすめ』(角川文庫)といった作品でロマンティックな文才を見せ、青少年の煽動者と目された。そのほか、「映画監督」「放送作家」「作詞家」「競馬評論家」など実にさまざまな肩書を持ち、「職業・寺山修司」と自称していたのはよく知られた話だ。47歳の若さで死去したということもあり、寺山をカリスマ視する者は後を絶たない。

 そんな寺山の仕事ぶりを間近で見てきた人物の一人が、映画配給会社アップリンク代表の浅井隆氏だ。10年間にわたって天井桟敷の舞台監督を務め、「伝説」と語り継がれる作品群を、内側から見続けてきた人物だ。高校生の頃に初めて天井桟敷の作品を目撃した浅井氏は、その衝撃を次のように振り返る。

「大阪のサンケイホールで、天井桟敷が『邪宗門』を上演したんです。煙がもうもうとした中でJ・A・シーザー(天井桟敷に所属した音楽家)の音楽がおどろおどろしく鳴る。大仕掛けのスペクタクルがあり、エンディングは『劇は劇場の外にあるんだ』というメッセージでした。そんな空間に飛び込んだのは高校生で初めて。これはかっこいいと思いました。それから、紅テントや黒テントなどが来るたびにいろいろ見に行ったけれど、それらが「芝居」だったのに対し、天井桟敷は「ショー」だったんです。当時、ブロードウェイミュージカルの『ヘアー』が、元祖ロックミュージカルとして話題になっていましたが、天井桟敷はあたかも日本版ロックミュージカルのようでした」

 「演劇を通して、社会転覆を目指す」という天井桟敷のスローガンに魅せられた浅井氏は、上京後、天井桟敷に入団。それから10年間、浅井氏にとっては20代の青春の日々を、裏方として天井桟敷に捧げてきた。しかし、浅井氏の視点に立つと、その「伝説」の形は、世間一般に語り継がれているものとはやや異なるようだ。今でこそ「アングラ」は一つのジャンルとして確立されているものの、当時を知る浅井氏は「ほとんど蔑称のようなものだった」と証言する。

「僕たちは、自分で『アングラ』と言うことはありませんでしたね。普通に演劇をしていると思っていたから、『前衛劇団』であっても、アングラではなかった。当時、劇団員にはチケットノルマが課されており、30〜50枚のチケットを友人や知人に手売りしていました。有名だったわけでもなく、評価が高いわけでもなかったから、チケットを売るのも大変だったんです……。アングラ劇団員なんて名乗ったところで、家も借りることができない。みんなバイトをしながら必死で食いつないでいました」

 そう笑いながら往時を振り返る浅井氏。だが、毎回苦戦を強いられる国内公演の一方で、ヨーロッパを中心とする各国の演劇祭に呼ばれ、『人力飛行機ソロモン』や『毛皮のマリー』『邪宗門』といった作品を上演。世界の最先端の劇団としての名声を獲得していったのだった。

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