財界と社内のマネジメントから見る楽天・三木谷浩史の真価
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──2011年6月、楽天が経団連を脱退することを、同社代表の三木谷浩史氏がツイッター上で発表した。それから1年、同氏はこの6月に、ウェブ事業者を中心にした「新経済連盟」を始動。97年の創業以来、順調に事業・組織を拡大してきた楽天を率いる三木谷氏とは何者か、我々は本当には知らないのかもしれない。彼は日本の経済界を変える救世主なのか? 財界の大御所を手玉にとる「ジジ転がし」なのか、あるいは、配下の人間に過酷な労働を強いるただの独裁者か。その”マネジメント能力”の真価を計る。
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2011年、楽天の中核をなす「楽天市場」の取扱高が1兆円を突破した。いまや国内企業が経営する最大のインターネットモールであることは、誰の目にも明らかである。三木谷浩史氏は今年最初の社員集会で「20年までに流通総額を10兆円に伸ばす」と高らかに宣言。その勢いはまだ衰えていない。一代で富を築いた彼だが、その歴史をさかのぼると、重大なターニングポイントでは常に経済界の重鎮たちによるバックアップを受けてきたことが浮き彫りになる。
生まれは1965年。父は高名な経済学者で神戸大学教授(現名誉教授)、母も同大卒のキャリアウーマンという、見事なエリート一家である。父がイェール大学の客員研究員として赴任した際には家族で渡米し、6歳からの3年間をボストンで過ごした。中学からテニスを始め、一橋大学時代にはテニス部部長として100名近くの部員を率いている。
大学を卒業した三木谷氏が就職先に選んだのが、日本興業銀行(現みずほコーポレート銀行)。3年後の91年、社内制度を利用してハーバード大学に留学し、MBAを取得。帰国後は大型M&Aを手がけ、期待の若手に育っていく。しかし95年の阪神大震災で叔父叔母を亡くしたことが、人生の転機となった。「人生は儚い。やりたいことをやらないと悔いが残る」と痛感し、同年末に興銀を退社。コンサルティング会社設立を経て、97年2月には楽天の前身となる会社を作り、同年5月に「楽天市場」を開設した。
まだネット黎明期、ECサイトの成功例もなければノウハウもない時代だった。開設当時の社員は妻を含めて6人、出店店舗はわずか13。彼はこの逆境を、猛烈な営業努力によって乗り切っていく。この頃発揮された「体育会系のアツさ」は、現在に至るまで楽天の社風としても根付いている。その働きの甲斐あって、99年にはテナント2000店舗、年間流通総額1億円超を誇り、あっという間に日本最大のインターネットショッピングサイトとなった。
■人の話を聞くためのガラス張りの社長室
急成長の裏には、目標達成のための厳格なルール作りがある。「常に改善、常に前進」「スピード!! スピード!! スピード!!」などの「5つの社訓」は社内各所に掲示され、楽天成功の象徴として知られている。これは社員証にも印刷されており、社員は暗唱必須。ノルマも熾烈を極め、成績により細かい職級で格付けがされる。火曜朝8時から行われる定例会議では、遅刻すると入室を認めない徹底ぶり。だが、03年頃に在社した元社員は、当時の社内をこう振り返る。
「幹部クラスのほうが平社員よりも出社が早いから、文句は言えなかったですね。『豪腕』『独裁』とよく言われますが、毎月社員の合同誕生日会を開くなど、社員とも積極的にコミュニケーションを取っていくタイプ。社長室がガラス張りになっていることと、三木谷社長がよく飼い犬のチワワと出社してくることが印象的でした(笑)」
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