「年寄りをナメるな!」老人ホームで聞こえた、人々の生活史『驚きの介護民俗学』
#本
老人は何度も同じ話をする。例えば、うちの祖父がそうだ。
今年90歳になる祖父は、認知症こそ始まっていないものの、会うと毎回同じ話を繰り返す。例えば、戦後すぐの話。祖父は闇市で飴の販売をしたり、コメや農作物と物々交換をしてもらい生計を立てていた。
「伊東でイカを仕入れて、長野まで夜行で持って行ったんだよ。おい、どうなったと思う?」
「さあ……」
「腐っちゃってたんだよ」
祖父、爆笑。
こちらはうつむきながら調子を合わせて、とりあえず笑っているような雰囲気を作る。100回近く聞かされたこの話が面白いわけがない。だが、こちらの考えなどお構いなしに、おそらく祖父は死ぬまで僕に向かってこの話をしていることだろう……。
大学教授として学生たちに民俗学を教える立場から突然、介護の現場に飛び込んだ民俗学者・六車由実は「介護民俗学」という概念を提唱している。老人ホームで、認知症の老人たちの生活史に熱心に耳を傾けることによって生み出されたこの新しい視点。その成果が『驚きの介護民俗学』(医学書院)として一冊の本にまとめられた。
九州電力の子会社で働いていた山口昇さんは、発電所から村々を結ぶ電線を設置する仕事に従事していた。10日間村に滞在し、電線の設置が終わればまた別の村へと移動する。また、カイコの雄雌を見抜く「鑑別嬢」という仕事をしていたのは杉本タミさん。若い女性たちがグループを組み、あちこちの村に派遣され、村人と触れ合いながらカイコの鑑定を行う。現代では失われ、思い出されることもない彼らの暮らしぶり。六車は、民俗学者・宮本常一の言葉を引用しながら「忘れられた日本人」と彼らの半生を形容する。
また、高齢者のトイレ介助も老人ホームの仕事。普通なら嫌がられるだけの仕事だが、六車はそこにもまた面白さを見出してしまう。慣れない水洗トイレに拒否感を示してしまう入所者たち。「トイレに行きましょう」と声をかけてもなんの反応もしないのに、「お手洗い」「便所」「雪隠」などと言い換えればとたんに理解できる認知症の老人。畑仕事をしていた昔の記憶を思い出したのか、しばしば男性用トイレで立ちションをしてしまう女性……。
生活の歴史をつぶさに聞きだす民俗学のフィールドワーク現場として、老人ホームほど適した場所はない。だが、相手は認知症を患っている老人。認知症の診断を受けていないわが祖父の話し相手をするだけでもへとへとになってしまうのに、認知症老人相手にコミュニケーションなどとることができるのだろうか?
例えば夕方になると「帰りたい」と言い、徘徊をはじめるハルさん。「たそがれ症候群」といわれ、認知症高齢者によくある症例のひとつだ。
「私は家に帰ってご飯の支度をしなきゃいけないのよ。私が帰らなきゃ子どもたちがみんな困るじゃないの。だから私を家に帰してちょうだい」
「お母さんが病気で家に一人でいるの。だから帰らなきゃならないの」
もちろん、そんな事実はないのだから、彼女の言葉は「ボケ」の典型的な症例に過ぎない。しかし、六車はそんなハルさんの言葉から、徘徊する背景を「家族のために一生懸命働いてきたハルさんの生き方が垣間見える」と肯定する。認知症だからといって、決して老人たち本人にとっては支離滅裂な言葉をしゃべっているわけではない。記憶が混濁していても、彼らには彼らなりの必然性を持った言葉を話している。六車は、そんな老人たちの言葉に対して真摯に向き合う。
もちろん、人手不足が叫ばれ、過酷を究める介護の現場に、そんな誠意を持つ余裕はないという反論もある。六車も、仕事が変わり業務に忙殺されるようになると、とたんに彼らの話を聞く余裕を失ってしまった。だが、そんな状況でも「知りたい」という好奇心は勝手に動きまわるものだ。彼女は忙しさに流されず、そんな自分の欲求に素直になることで、「驚き」という感動を手にした。それは、思わぬ可能性も秘めていた。
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