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“覇権”夢幻の如くなり……平成の世に現れた偉大な討死アニメ『ギルティクラウン』

guiltycrown.jpg『ギルティクラウン』公式サイトより

 「覇権アニメ」というネットで生まれたジャーゴンがある。

 ある期間内に放映されたアニメ作品の中で、もっともDVD・BDを売り上げたタイトルのことを指す言葉で、たとえば「『魔法少女まどか☆マギカ』は2011年の覇権アニメ!」のように使う。

 「覇権アニメ」が何もないところから生まれてくるケースは極めて珍しい。大ヒット原作のアニメ化(ないしは人気シリーズの最新作)、集客力のあるスタッフ、実力派のスタジオ、人気声優中心のキャスティング、十分な準備期間、入念な広報活動、それらを可能にする潤沢な予算……といったさまざまな要素を積み重ねて整えた下地に、「運」というコントロール不可能な最後の力が加わったとき、アニメファンは大きく揺り動かされ、「覇権アニメ」が生まれる。「努力した者が全て報われるとは限らん/しかし!/成功した者は皆すべからく努力しておる!!」(by鴨川会長@『はじめの一歩』)というヤツである。

 先日放送を終えた『ギルティクラウン』(フジテレビ系)は、「覇権アニメ」になるための要素を、必要をはるかに上回る水準で積み上げたタイトルだった。

 『マクロスF』を成功に導いたキーパーソンのひとりである吉野弘幸がシリーズ構成を務め、『プラネテス』の大河内一楼が副シリーズ構成として参加するというシナリオの布陣(ちなみにスマッシュヒットを飛ばした『コードギアス 反逆のルルーシュ』では、大河内がシリーズ構成、吉野が副シリーズ構成を担当)。監督は『DEATH NOTE』『学園黙示録 HIGHSCHOOL OF THE DEAD』で名を馳せる俊英・荒木哲郎。制作会社は『攻殻機動隊GHOST IN THE SHELL』など数々の国際的ヒット作で知られる、世界に冠たる実力派スタジオのプロダクションI.Gキャストも梶裕貴、茅野愛衣、花澤香菜、竹達彩奈といったいずれも主演級の声優を集め、広報やパッケージの展開は「覇権アニメ」の大半を送り出しているアニプレックスが担当。さらにはゲーム会社・ニトロプラスも企画に参加し、『魔法少女まどか☆マギカ』の虚淵玄と並ぶ同社のメインライターである鋼屋ジンが各話のシナリオとして参加し、キャラクターデザイン原案はpixivを中心にネットで絶大な支持を集めるredjuiceが手がけ、主題歌はこれまたネットユーザーを中心に若者に高い人気を誇るsupercellのryoが書き下ろす。放送枠も『のだめカンタービレ』や『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』などを送り出してきたノイタミナ。どこをとっても失敗するはずのない布陣になっていた。

 ところが蓋を開けてみれば、DVD・BD1巻の初動売上枚数は、オリコン等のデータ調べでは1万枚強にとどまった。累計売上が3,000枚を超えればペイライン、5,000枚を超えればヒット作と言われる昨今だが、上述した通りの豪華な布陣から考えて、関係者の期待値は相当高かったことだろう。あわよくば『まどか☆マギカ』級くらいには考えていたかもしれない。その数字は、多少の誤差を考慮しても、大きく下回ってしまった。

 どうしてこんなことになってしまったのだろう。

 当然の前提として、作品の出来栄えや評価は、売り上げなどの目に見える数字と必ずしも連動するものではない。かの『宇宙戦艦ヤマト』『機動戦士ガンダム』とて、本放送時には打ち切られている。

 しかしながら『ギルティクラウン』の場合はどうか。

 映像のクオリティは高かった。テレビシリーズとは思えない破格のビジュアルをほぼ毎週堪能することができた。

 ところがストーリーがよくわからない。序盤は、アポカリプスウィルスという謎の奇病が蔓延したことで、超国家間で組織された“GHQ”からの武力介入を受け、実質的な自治権を失った近未来の日本を舞台に、「日本の解放」を目指すレジスタンス“葬儀社”にひょんなことから参加することになった平凡な高校生・桜満集(おうま・しゅう)の成長物語の体裁をとって話が進む。だが、集が何を考え、何に迷い、どうなりたいのかがさっぱりわからない。かわいい女の子に振り回されるまま、偶然手にした、他人の心を“ヴォイド”として具現化し、道具として用いる超能力で場当たり的に行動するだけなのだ。

 中盤を過ぎ、葬儀社の活動が大きな転換を迎え、その中心に集が位置するようになってから、ようやく彼の行動は視聴者にも理解可能なものになる。弱さを捨て、強いリーダーとなることを目指す少年の姿は、前半の迷走ぶりをすっかり頭から追いやってしまえば魅力的に見えなくもない。ところが、今度は周囲の仲間たちがそんな彼に対して場当たり的なリアクションを繰り返す。あるときは誉めそやすかと思えば、あるときは強硬路線に反対する。まるで現実の政治に対する日本国民の反応を見るかのようで、悪意のある戯画と捉えれば面白くはあるが、そうした裏目読みを試みなければ見ていて混乱するばかりだ。

 そして終盤になると、集を中心とする、極めてプライベートな人間関係のいざこざに話は収斂されてしまう。社会や政治に対する要素を後景に追いやり、キャラクターたちの愛憎劇に絞りこむことは、わかりやすい盛り上がりは生むものの、作品に真摯に向き合ってきたファンであればあるほど、怒りを覚えるものだったのではないか。

 ようするに、売り上げがいまひとつ伸びなかったのは、作品としての出来の悪さ――主にストーリー展開の難――に起因していると言えそうなのだ。

 誤解のないようにして欲しいが、これは吉野・大河内コンビが悪いという話では、おそらくない。誰も主導権を握れず(監督も、プロデューサーも、他のスタッフ陣も、最初から実際に形になったような『ギルティクラウン』が作りたかったようには思えない)、全体の総意から生まれる最適解も作れないまま、企画が迷走してしまった結果なのではないか。もしこの想像が当たっているとしたら、なんとも残念な話である。

 「覇権アニメ」を目指し、鉄壁の陣容を揃えながらも、「運」を味方にできなかったために天下は獲れなかった。いうなれば『ギルティクラウン』は、織田信長の如き豪快な討ち死にっぷりを平成の世に示した逸品なのである。そう見立て、無常を噛み締めながら見る分には、『ギルティクラウン』は悪いアニメではない。

 滅びの美学に飢えているあなたは、ぜひ手を伸ばしてみてほしい。
(文=麻枝雅彦)

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そう言われると見たくなる。

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最終更新:2013/09/06 15:57
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