「南三陸町って、一体どこ?」平成の大合併が復興の足かせになっている!?
#東日本大震災
震災発生直後の報道で、東京に暮らす被災地出身者が違和感を覚えたことがあったという。それは現在の市町村名だ。
「南三陸町って一体どこのことなんだろうって思いました」
Twitterをはじめ、各種ブログなどでこのような書き込みが散見された。一方で、地元の人々から発せられた言葉の中にも同様のものがあった。
「女川の隣まで石巻市って言われても、実感がないんだよね」
これは、現在も石巻に暮らす30代の男性の言葉だ。現在の行政上の「石巻」について違和感があるという。彼によると、多くの人が現在の被災地の地名にしっくりいっていないという。
そもそも現在の行政区分は、「平成の大合併」によって誕生した巨大な新しい自治体だ。平成の大合併は、1999年から政府主導で始まった大規模な市町村の合併政策。小さな自治体同士を一緒にして広域な自治体をひとつの行政組織が主導することで業務の効率化を図り、行財政基盤の強化や地方分権の推進を目的としていた。つまりは地方行政の”スリム化”を図ろうとしていたのだ。2000年代にピークを迎え10年には全国で合併が終了、まさに地方分権改革を代表する大規模な政策となった。
宮城県でも30以上の市町村が消滅し、編入合併している。だが、大合併でスリム化された行政は地元の人間に定着する前に今回の大震災に直面してしまった。そしてその弊害は最悪のタイミング、つまり震災直後から明るみに出ることとなる。
まず、県外にいる出身者からの生存者や行方不明者の身元確認などの問い合わせ窓口としての役割を十分に果たせなかった。大合併以前の地名で問い合わされるために、役所の人間も旧町名で対応することがあったそうだ。
さらにより深刻な問題となったのは、復興を目指して再始動を開始してからだ。
震災の罹災証明書や支援金の申請で多くの住民が列をなし、担当者が裁ききれなくなっているという。しかも、役所の施設そのものが津波で水没したり、業務用のデータが入ったパソコンが故障したり流されるなどの被害を受けているところもある。このような状況に加えてスリム化された業務体制では提出された大量の書類の処理が追いつかないのが現状だ。これも地方行政のスリム化の弊害と言えるだろう。
また、大きな弊害として、先ほども触れた「行方不明者」の問題がある。それは今もなお、親類や知人の安否情報を求めて役所にやってくる人が絶えないことからも分かる。すでに各地では捜索が打ち切られているが、まだすべての人の安否確認すらできていないのが現状だ。
その安否確認にしても、市町村合併で各自治体の人口が大幅に増えたにもかかわらず、「避難者名簿」や「行方不明者名簿」などの紙ベース作られた書類を片っ端から確認するというアナログな方法しかないのだ。そのため現時点では、遺体安置所での身元確認も進んでいない。
このように、平成の大合併は被災地の復興に実害とも言える問題をもたらしている。
しかし、今回の震災をきっかけに「住民の顔が見えるような小さな行政こそが必要だ」と、断じるのは極論だろう。市区町村の行政区分を旧市区町村に再び分けることは現実的な方法ではない。
一度変更してしまったことを元に戻すこともできないのであればこそ、震災後の街づくり、新たな都市計画を議論していくときに、広域の市区町村を役所がすべてカバーしきれずに通常の行政サービスを均一に提供できないような現状を反省材料としていくべきだろう。
(取材・文=丸山ゴンザレス/http://ameblo.jp/maruyamagonzaresu/)
これもまた、小泉内閣が落とした影。
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