親に捨てられ聴覚を失い、12歳で来日した韓国人女性が”リア充”人生を謳歌してるワケ
#本 #インタビュー
世の中は不公平。そんなことはハナから分かっていても、「ゴールドマン・サックスを経て今はクレディ・スイスに勤務。花形職業に就く夫と可愛い盛りの娘あり。4カ国語を話せるアラフォーです」なんていうプロフィールを見ると、ため息のひとつも出てくるというもの。そんな女性が書いた半生記なんて、普通なら見向きもしないかもしれない。
だが、『耳の聞こえない私が4カ国語しゃべれる理由』(ポプラ社)の著者である金修琳(キム・スーリン)さんの場合、そのプロフィールの前半には「両親の離婚で捨て子同然の目に遭い、親戚や他人の家など次々とたらい回しにされ、さらには聴覚を失い……」という、あぜんとするほどの不幸が列記されているのだ。
現在のリア充っぷりとはあまりにギャップがある子ども時代。この金修琳という女性、いったい、どんな人生を送ってきたのだろうか?
■4カ国語を覚える方法
――修琳さんが話せるのは、韓国語・日本語・英語・スペイン語とのことですが、耳が聴こえないにもかかわらず、4つもの言語を習得するに至ったのはどういう理由があったのでしょうか?
「私は韓国のソウルで生まれた韓国人ですので、韓国語は母国語として覚えました」
――生まれつき聴こえなかった、というわけではないんですね?
「はい。6歳までは聴こえていたようです」
――著書を読むと、修琳さんは幼いころからかなりご苦労されているようですが……。
「そうですね。つらいこともありましたね(笑)」
そうカラッと笑う修琳さんだが、実際には「つらい」という言葉が軽く聞こえるほどの目に遭っている。生まれて間もなく両親が離婚、4歳になって捨て子同然で預けられた父方の親戚の家でネグレクトを受け、母によってようやく救出されたかと思いきや、今度は母が日本へ出稼ぎに出たためまた離れ離れに。修琳さんの養育費として用意されていた金を、祖母が勝手に我が息子への投資と教会への布施に横流ししたせいで貧乏のどん底に。そんな生活の中、失われていった聴覚。そして、突然日本に連れて来られ、右も左も分からない異国の赤の他人の家で暮らすことになる……。
これが小学6年生になるまでに起こったことというのだから、韓流ドラマも顔負けだ。
「日本語は生きていくために覚えました。座学で覚えたのではなく、生活の中でマスターしていったんです。当時、私は12歳。子どもって、環境に慣れることも言葉を覚えることも大人の何倍も早い。きっと、大人より生き抜く力が強いんでしょう。日本人のファミリーと生活を共にし、日本の普通学校に通いましたので、当然同年代の子どもとの交流が盛んになる。そうすると、日本語を覚えないとケンカもできないんですよね(笑)」
――ああ、なるほど。「ケンカ上等!」のために覚えた言葉だった、と(笑)。しかし、それだけで本当に覚えられるものなんですか?
「預けられた日本人ファミリーの家で覚えたというのもありますが、一番大きかったのは、タナカさんという同級生の存在でした。彼女が、毎日毎日根気よく私が発音練習する相手をしてくれたんです。彼女が教えてくれる口の動きをそのままマネして、家に帰ると家族を相手にアウトプットする生活を送っていたら、非常に早く覚えられました。彼女とは、成長するにつれ、いろいろな事情が重なって疎遠になっていったのですが、今でも心から感謝しているし、もし会えるのなら会いたいと思っています」
読者の中には、「では、このインタビューはどうやって行われているのか?」と気になる方もいるかもしれない。たとえ聴こえないながらも修琳さんが「話す」ことはできるとして、では「聴く」方もできない限り、「会話」は成立しないのではないか、と。答えは、「読唇術」。修琳さんは、こちらがちょっとだけ大きめに口を開けてはっきりと話しさえすれば、唇の動きだけで十分相手の話していることを理解することができるのだ。
修琳さんは、こちらの話に自然に相づちを打ち、時にはケラケラと笑う。こちらとしては、彼女が聴覚を失った人間だとはとても思えない。しかし、それが可能となるためには、並々ならぬ努力があったわけである。
――では、英語は? 高校を卒業してからイギリスに留学して勉強されたとのことですが。
「英語の習得は本当に大変でした。英語力がほとんどゼロの状態でイギリスに渡航したものですから。小学6年生から高校まで日本で学校に通っていたものの、耳が聴こえないせいで国語と英語はとても成績が悪かったんです」
――日本語習得のようにはいかなかったわけですね。
「ええ。そもそも 『I』という字をなんと発音すればよいのか分からない。テキストを数行読むだけでも、何日もかかるような状態でした。大げさに言うとヘレン・ケラーみたい。のどや口、舌に触ってどういう動きをしているのか確かめながら、発音を覚えたんです。ただ、発音の仕方を覚えても、それを声にできるまでにまた時間がかかる。それに、覚えた音が合っているのかどうかは自分で確認できない。だから、知っている人全員に聞いてもらって、相手が理解できるか確認するというのを学校でもホームステイ先でもやっていました。渡英前は自分を言語の天才のように思っていたんですけど、とんでもなかった(笑)。偉そうになっちゃいますけど、聞こえない状態で新しい発音を覚えるのは、並大抵の努力ではできません」
――それが、今では仕事で使うことができるレベルになっている、と。
「もちろん私は自分の声だって聴こえないわけですから、いまだに自分が正しく言えているのかどうか、本当のところは分からないままではあるんですけどね。でも、通じているからとりあえずは大丈夫なんじゃないですか」
――そして、最後にスペイン語。また同じ努力を繰り返すのかと思うと嫌にならなかったんでしょうか?
「人間って欲深いでしょう? せっかく3カ国語を話せるんだから、もう1カ国語やろうっていう気持ちで挑戦したのが、スペイン語だったんです。スペイン語は読み方がほとんどローマ字と同じだから、いくつか特別な発音を覚えられてしまえば、英語よりは難しくありませんでした。英語のように一つひとつ覚える必要がなかったので、会話ができるようになるのも早かった。だから、スペイン語は楽しく勉強しました」
■人生を切り開いていくために必要なものは?
本書ではもうひとつ見逃せない点がある。それは、修琳さんのサバイバル能力の高さだ。先ほど紹介したように、修琳さんは子どものころから波乱万丈の人生を送っている。大人になってからも、2度のうつ病を経験するなど、平凡な道を歩めたわけではない。しかし、何か困難にぶち当たるたび、あがき、周りを巻き込み、最終的には自分の望みをかなえてしまうのだ。
――修琳さんは何度もつらい目にも遭っていますが、そのたびに自分でなんとかしようと突っ走りますよね。どうして、そういうことができるのでしょう?
「もともと楽天的だからじゃないですか? 悩みがあっても、その場その場で解決できる方法を探してきたので、人生を通して大きな悩みがあり続けているかというと、そうでもないです。2度、うつにもなりましたから、それなりに何かあったんでしょうけど、今思えば何に悩んでいたのかが分からないんですよ」
――耳が聴こえないことで、人より苦労しているとか、損をしていると思うことはないのですか?
「ないですね。周囲には『いろいろ苦労があるでしょう?』と言われますが、自分では『別に?』って感じで。確かに、耳が聴こえないと、コミュニケーションがうまく取れずに人間関係が難しくなることがよく起こります。でも、コミュニケーションの難しさに悩むのは、聴こえる人も同じですよね。ハンディがあるから、とか、私だからという特別な悩みにはなり得ないでしょう?」
――それは確かに。でも、修琳さんのようにアクティブに動いて、それを解決に結び付けるバイタリティーがある人は少ないかもしれません。だんな様だって、出会い系サイトで見つけたんですよね? 普通は、サイトに登録するところでちゅうちょしますが。
「じっと考えていても始まらないですから。アクションを起こさないと結果は出ないし、チャレンジしてみないと悔いが残りますからね」
――今は子育てに四苦八苦しているとか。
「そうなんですよ。もう、2歳児なんて悪魔です、悪魔(笑)。でも、日に日に成長して、最近は『自分のお母さんがほかとはちょっと違う』ということが分かり始めたみたい。どうやれば私に自分の思いを伝えられるのか、彼女なりに模索しているようです。ただ、私が聴こえないせいで娘を危ない目に遭わせるんじゃないか、というのが目下の悩みかもしれません」
――でも、今はお幸せだ、と。
「幸せです。人並みに、幸せです。でも、もっと幸せになりたいです(笑)」
(取材・文=門賀美央子)
●きむ・すーりん
1972年、ソウル生まれ。聴覚障害を持ちながらも、韓国語・日本語・英語・スペイン語の4カ国語を話す。小6の時に日本へ。高校卒業後、イギリスへ留学。短大卒業後、王子製紙に就職し、4年後に退社。貯金が尽きるまで、3年間で世界30カ国を放浪する。帰国後、米金融大手ゴールドマン・サックスに入社。現在は同じく金融大手クレディ・スイスに勤めながら、2歳の愛娘の育児に奮闘中。
耳の聞こえない私が4カ国語しゃべれる理由
6歳で聴覚を失い、12歳で来日。時を経て今は外資系一流企業に勤務。変わり種キャリアウーマンの、へこたれないトンデモ半生記。
発行/ポプラ社 価格/1,470円(税込)
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